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神学の河口18 福音記者ヨハネの挑戦(1) ベタニアのマリアは、ヨハネ福音書の中では、変わった女性として描かれている。カナの婚礼の場面でのイエスの母、ヤコブの井戸でのサマリアの女、ベタニアのマルタ、そして、マグダラのマリア、これらの女性たちは、それぞれ個性は違っていても、イエスと対峙しながら、イエスに感化され、隣人にも向かい、「神と人と隣人」の関係をつくるようになっていくのである。ベタニアのマルタは、イエスに導かれて、しまいには使徒ペトロと同じ信仰告白をするところまで高められた*1。マルタはペトロと同じように、御父とつながったのである*2。しかし、ベタニアのマリアは、違っていた。 *1「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております」(ヨハネ11,27) *2「バルヨナ・シモン、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、天におられる私の父である」(マタイ16,17) まず、ルカ福音書の場面から見ていく。いろいろなもてなしのためせわしく立ち働いていたマルタが、イエスに、「主よ、姉妹は私だけにおもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください」(ルカ 10,40 )とダイレクトに言えたことは、すでに二人の間に信頼関係ができていたことを示している。「そばに立って言った」(ルカ 10,40 )という描写からもそれがよくわかる。また、イエスが「マルタ、マルタ」と彼女の名を2度続けて呼びかけているところからも、それが察せられる。イエスはマルタに、「マルタ、マルタ、あなたはいろいろなことに気を遣い、思い煩っている。しかし、必要なことは一つだけである。マリアは良いほうを選んだ。それを取り上げてはならない」(ルカ 10,41~42 )と言った。イエスは、このときマルタにただ一つ必要なことは、マリアの隣人となって、彼女の選択を尊重することだと助言したのである。   このベタニアでの出来事の直前には、「良いサマリア人」のたとえが置かれている(ルカ 10,25~37 参照)。ここでも、イエスと律法の専門家とのやり取りに、マルタとのやり取りと同じようなテーマを見つけることができる。一つは、彼らが、イエスとある程度良い関係の中で、イエスから会話を引き出していること。そして、イエスが彼らに、彼