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  神学の河口 26  ぶどうの枝 (2) 「父が私を愛されたように、私もあなたがたを愛した。私の愛にとどまりなさい。私が父の戒めを守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、私の戒めを守るなら、私の愛にとどまっていることになる。これらのことを話したのは、私の喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。私があなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これが私の戒めである。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。私の命じることを行うならば、あなたがたは私の友である」(ヨハネ 15,9~14 )。 イエスが語る愛の源は、御父の憐みである。御父の憐みは見ることができない。御父の憐みは、それをみ言葉が表現して初めてその姿を現し、御父が憐みの神であることが明らかになる。この神の憐みは、目的のために具体的な手段に向かい、その手段は愛となる。ゆえに愛は見ることができる。神は言われた。「我々のかたちに、我々の姿に人を造ろう。そして、海の魚、空の鳥、家畜、地のあらゆるもの、地を這うあらゆるものを治めさせよう」(創世記 1,26 )。このように神は、ご自身が創造した世界への憐れみを言葉で表現し、神が憐みの神であることを明らかにした。この神の憐みは、神が創造したばかりの被造物に治める者を与えるために、「人」を創造すると言う具体的手段に向かった。神である主は、土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き込んだ。こうして形づくられた人は、神とともにいて、神の憐みに具体的に答える愛となった。被造界は、神によってそこを耕し守る人を得て、命の循環が始まった(創世記 2,4~15 参照)。「神は、造ったすべてのものを御覧になった。それは極めて良かった」(創世記 1,31 )と書かれている。 イエスは御父の全権を担って来た神であったが、人となって、愛である人として、福音を述べ伝えた。「父が私を愛されたように」とは、そのために、常に御父に祈る御子の必要を、御父が満たし続けたことである。イエスが「父は私よりも偉大な方だからである」(ヨハネ 14,28 )と言ったとおりである。「私もあなたがたを愛した」とは、イエスが、弟子たちに憐みの神である御父の名を知らせ、イエスと同じ父を持つ兄弟姉妹としての資格を与えたことである(マタイ 12,50 参照)。