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神学の河口10 天におられるわたしたちの父よ イエスが弟子たちに与えた主の祈りは、 完全に神であるイエスの祈りと、完全に人であるイエスの祈りが、一つの祈りになっているというところにその養成力がある 。この力に、唱える弟子たちは、自らの自由な意思が神性に与かるよう呼ばれていることに気づく。この気づきは、「私は道であり、真理であり、命である」(ヨハネ 14,6 )と言ったイエスの姿に、福音的勧告を見出し、「誰でも、十分に訓練を受ければ、その師のようになれる」(ルカ 6,40 )と言ったイエスの言葉を受け取る勇気を、弟子たちに与える。 「み名が聖とされますように」 (神性)の祈りと、 「わたしたちの日ごとの糧を今日もお与えください」 (人性)の祈りは結ばれて、神の清貧と道を示す。「聖」とは、「必要」なものが何もないことからくる神の清貧に表れる全能性である。神の清貧は、天の父の憐みが、生き物の真の「必要」を満たそうと動くとき、神の摂理として表れる(マタイ 6,25~34 、ルカ 12,22~31 参照)。神の摂理は神の仕方であり、イエスが示した「道」である。「わたしたちの日ごとの糧を今日もお与えください」の祈りは、かつてイエスが群衆に、「わたしの父が天からのまことのパンをお与えになる」(ヨハネ 6,32 )と答えた言葉によ って実現している。したがって「日ごとの糧」とは、格別にみ言葉とご聖体を指している。弟子たちがみ言葉とご聖体を受け取る姿は、天の父の憐みが、人の真の「必要」を満たす神の摂理として現れたことを証しする。これがイエスの示した「道」である。神は、み言葉とご聖体を受け取るために、日常生活の舵をミサに向けて 生きる弟子たちを助け、弟子たちは、天の父のみ名を聖なるものとして崇め讃えるのである。 「み国が来ますように」 (神性)の祈りと、 「わたしたちの罪をお赦しください。わたしたちも人を赦します」 (人性)の祈りは結ばれて、神の貞潔と真理を示す。神の貞潔とは、罪と無関係である神の状態をいう。み国は罪のないところに来る。イエスは十字架上で、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか分からないのです」(ルカ 23,34 )と言い、神は罪を赦す方であることを明らかに示した。「神は罪を赦す方である」という言葉は、真理である。イエスは罪を赦す十字架
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神学の河口9 「神の独身性」を受け取る者 前回の考察から、イエスの母マリアのポストを継承した新しい男と、イエスのポストを継承した新しい女の姿に描かれている聖霊降臨を待つ共同体は、聖家族の構成と召命を持っていたことが分かった。この人々の中には、マグダラのマリアを初め「神の独身性」を受け取る者たちがいた。「神の独身性」とは、めとることも嫁ぐこともない神の命である神の意思の特性であり、三位一体の神が、それぞれ自ら「わたしはある」という方として、神の知識で一体になりながらも、それぞれの意思が独立し、互いに意志を抱え込む依存の 関係にないことからきている。 この「神の独身性」といえる自由は、神が人に吹き入れた命、すなわち、人の自由な意思の特性でもある。しかし、自由な意思を持つすべての人がこの世からこの特性を生きるわけではない。キリスト者においても、ご聖体を生み出す司祭は、マリアがそうであったように、聖霊の介入を受けて、その記憶に聖霊の意志によって生きるようになったみ言葉を抱えている。また、父母となった人は、ヨセフのように子どもの自由な意思を、その子が成人するまでその記憶に抱え込む。そしてどちらの場合も一度抱え込んだ記憶は消えることがない。そこでこの「神の独身性」は、他者の意思を抱え込んだことのないキリスト者が、イエスの役割を受け取ることによって表現されることになる。 4 つの福音書は、イエスのそばで働く女性たちの姿を描いている(ルカ 8,1~3 参照)。その中心人物は、マグダラのマリアである。格別に復活したイエスに最初に出会い、それを告げる者として、主は、マグダラのマリアを選んだ。マグダラのマリアが主の復活の朝、イエスとは知らずに、「わたしが、あの方を引き取ります」(ヨハネ 20,15 )と言った言葉は、彼女が「イエスの名」を、「神の独身性」とともに引き受けたと理解することができる。福音書はこの時のやり取りに、特別な意味があったことを記載している。 「イエスが、『マリア』と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、『ラボニ』と言った。『先生』という意味である」(ヨハネ 20,16 )という記述は、イエスとマグダラのマリアが師弟の関係にあったことを明らかに示している。マリアは日常的にイエスを師として、尊敬をこめてこう呼んでいたのだ。そして「わたしにすがりつくの