神学の河口9

「神の独身性」を受け取る者



前回の考察から、イエスの母マリアのポストを継承した新しい男と、イエスのポストを継承した新しい女の姿に描かれている聖霊降臨を待つ共同体は、聖家族の構成と召命を持っていたことが分かった。この人々の中には、マグダラのマリアを初め「神の独身性」を受け取る者たちがいた。「神の独身性」とは、めとることも嫁ぐこともない神の命である神の意思の特性であり、三位一体の神が、それぞれ自ら「わたしはある」という方として、神の知識で一体になりながらも、それぞれの意思が独立し、互いに意志を抱え込む依存の
関係にないことからきている。
この「神の独身性」といえる自由は、神が人に吹き入れた命、すなわち、人の自由な意思の特性でもある。しかし、自由な意思を持つすべての人がこの世からこの特性を生きるわけではない。キリスト者においても、ご聖体を生み出す司祭は、マリアがそうであったように、聖霊の介入を受けて、その記憶に聖霊の意志によって生きるようになったみ言葉を抱えている。また、父母となった人は、ヨセフのように子どもの自由な意思を、その子が成人するまでその記憶に抱え込む。そしてどちらの場合も一度抱え込んだ記憶は消えることがない。そこでこの「神の独身性」は、他者の意思を抱え込んだことのないキリスト者が、イエスの役割を受け取ることによって表現されることになる。
4つの福音書は、イエスのそばで働く女性たちの姿を描いている(ルカ8,1~3参照)。その中心人物は、マグダラのマリアである。格別に復活したイエスに最初に出会い、それを告げる者として、主は、マグダラのマリアを選んだ。マグダラのマリアが主の復活の朝、イエスとは知らずに、「わたしが、あの方を引き取ります」(ヨハネ20,15)と言った言葉は、彼女が「イエスの名」を、「神の独身性」とともに引き受けたと理解することができる。福音書はこの時のやり取りに、特別な意味があったことを記載している。
「イエスが、『マリア』と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、『ラボニ』と言った。『先生』という意味である」(ヨハネ20,16)という記述は、イエスとマグダラのマリアが師弟の関係にあったことを明らかに示している。マリアは日常的にイエスを師として、尊敬をこめてこう呼んでいたのだ。そして「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから」(ヨハネ20,17)とイエスがマリアに言った言葉は、地上にイエスが体を持って現存する間は、「イエスの名」を受けることができない、と言っているのである。
ヨハネ福音記者は、この場面を特別に記載することによって、「イエスの名」を役割として受け取るのは、マグダラのマリアであったことを強調した。聖体制定の後、復活したイエスから聖霊の息を吹きかけられ、さらに聖霊降臨を経験したヨハネは、イエスが自分たち使徒を、弟子として養成しながら、実は聖霊のために準備していたことを悟ったにちがいない。ここからヨハネは、十字架のそばにいる人々の構成に、聖家族をモデルとした「わたしの教会」(マタイ16,18)を見た(「神学の河口」№8参照)。そして彼は、「愛する弟子」としてイエスとのさまざまな体験から、「イエスの名」を継ぐ者として選ばれていたのは、マグダラのマリアだったということが分かったのである。
福音記者ヨハネにとって、マグダラのマリアこそが、イエスご自身の名を「わたしの教会」に与えるために、イエスが選んだ弟子であった。福音記者は、復活したイエスとマグダラのマリアが出会った場面を、ここに記載することで、この事実を示し、マグダラのマリアが、復活したイエスから「イエスの名」を役割として受け取り、その名を継承する者として、主の十字架のそばに立っていた理由を、後世に伝えなければならなかった。それは、使徒としてイエスの母を引き取ったヨハネも、クロパの妻マリア(クロパの母マリア)も、他者の命を抱えた記憶を持っているために、この世で「神の独身性」とともに「イエスの名」を受け取り、イエスの役割を引き受けることが、けしてないからである。
福音書の中でイエスご自身が「わたしの名によって」、「わたしの名のために」とたびたび言っている。ここで、「わたしの名」、すなわち「イエスの名」は、マリアとヨセフが天使から告げられた名であり、神の啓示である。キリスト者の共同体の中で、他者の自由な意思を抱えたことのない独身の信徒が、公に「神の独身性」を証しする「イエスの名」を役割として受け取り、その存在を公に示すことは重要である。
現在のカトリック教会には、叙階の秘跡を持つ人びとと、結婚の秘跡を持つ人びとがいる。叙階の秘跡を持つ司祭は、意識的でなくても、すでにイエスの母マリアの役割を持っており、それをあらためて明示的に引き受けることが可能である。結婚の秘跡を持つ人々も、ヨセフの役割を引き受ける可能性がある。しかし、「イエスの名」を受け取ってイエスの役割を生きる人びとの身分が、今の教会の中に公式の身分としてない。これまでの考察から考えると、このままでは教会は、天の父がイエスの十字架のそばに集めた人々が揃った「わたしの教会」となることができないということになる。
世界規模でつながるネット上の共同体や組織の存在が日常のこととなった現代、「わたしの教会」が聖家族のイメージで恒常的に見えるものとして現れることは、実際というエッセンスを情報化社会に与え、聖書の世界を現実のものにする。神と教会の関係は、三位一体の神と聖家族をモデルにした「わたしの教会」の関係である。三位一体の神と天の父を共通の父としていただく「わたしの教会」は、聖家族がイエスを迎えたように、この関係の中にすべての人々を迎え入れていくのである。このために、「わたしの教会」であるキリスト者の共同体は、この共同体を訪れる人々が、そこで実際に聖家族を見て、聖家族を体験することのできる共同体であるという、重要な役割を担っている。そこでこの共同体は、聖家族の構成と召命を持つように、自らを養成する必要に迫られていることが分かる。格別「イエスの名」を受け取り、「神の独身性」を生きる人びとを共同体の中に生み出すことは急務である。
ここで、天の父が十字架のそばに引き寄せた女性たちの名がすべてマリアであったことは、偶然ではない。愛する弟子(使徒)がイエスの母を引き取ったために、同じマリアの名によって十字架のそばにいた人々の3つの役割が結ばれている。カトリック教会が、マリアの無原罪と被昇天を宣言したことに鑑みると、神は、マリアの受け取ったこの2つの恵みが全世界のものになることを、強力に望んでいるにちがいない。この2つの恵みは、再臨する主を迎えるため、すべての人々に必要不可欠な恵みだからである。それは、「わたしの教会」が、イエスが昇天するまでに用意したすべてのことを受け取り、受けたすべてを無償で隣人に渡していくことによって実現する。神は、すべての人々が、神の母性を知ることによって、御父と御子の絆を受け取り、天の父の力と一つになった十字架上のイエスの引き寄せる力と、聖霊の2つの霊性(「神学の河口」№7参照)によって、三位一体の神の関係に与かるよう招いているのである。
つづく

2020年 2月 広島にて
Maria K


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