7. わたしの記念としてこのように行いなさい
今回は、聖体制定の時、イエスがなぜ、「わたしの記念としてこのように行いなさい」(ルカ22,19参照)と言ったかについて考察し、ご聖体が永遠の命であることの説明の補足としたい。ヨハネ6章でイエスが、命のパンについてこれほど粘り強く語っているのは*、聖体制定のイエスの言葉が比喩ではなく、神の現実だったからである。イエスは、ご自分の体を食べさせるということを、人々が文字通り受け取ることが、どれほどむずかしいか、よく知っていた。そして、弟子たちがこのことについてつぶやいているのに気づいて言われた。「あなたがたはこのことにつまずくのか」(ヨハネ6,61)。今も多くのキリスト者がつまずき、ご聖体が永遠の命であることを知らずにいる。「あなたがたも離れて行きたいか」(ヨハネ6,67)と問うイエスにペトロは答えた。「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています」(ヨハネ6,68~69)。すべてのキリスト者が、この言葉をご聖体に向かって言うために、わたしたちは何ができるだろうか。
*「わたしは命のパンである。あなたたちの先祖は荒れ野でマンナを食べたが、死んでしまった。しかし、これは、天から降って来たパンであり、これを食べる者は死なない。わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである」(ヨハネ6,48~51)、「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。生きておられる父がわたしをお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる。これは天から降って来たパンである。先祖が食べたのに死んでしまったようなものとは違う。このパンを食べる者は永遠に生きる」(ヨハネ6,53~58)
「神学の河口」4で書いたように、御父の意思が動き、意志となって始まる神の動きは、御子の意志によって言葉と行為になって成し遂げられ、聖霊の意志によって与えられる認識で完結する一連の行為である。神は、神の動きを本質的に3者のペルソナによって成す一体の神である。第2のペルソナであるイエスは、ご自分で行為を成し遂げても、ご自身では神の認識にすることがない。そこで、イエスは「弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる」(ヨハネ14,26)と言った。ここには、「わたしの名によって」という言葉に特別な意味が含まれている。聖霊が「わたしの名によって」遣わされるのは、聖霊の意志が、地上で成し遂げられたイエスのみ言葉と結ばれて、イエスの霊を現し、イエスの成し遂げたことの認識を、一人一人の時宜に応じて与え、すべてのことを教えるためである。聖霊降臨の日、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、イエスを知っている一人一人の上にとどまったように(使徒言行録2,3参照)、また、「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」(マタイ18,20)とイエスが言ったように、聖霊は、人々の中にイエスの霊を現存させ、すべてのことを教える。これは聖霊の2つの霊性の1つである。
人は、過去の出来事を思い出すために記念する。イエスは、聖体を制定したとき、「わたしの記念としてこのように行いなさい」と言った。それは聖霊が、イエスが話したことをことごとく思い起こさせるからである。聖霊降臨の日、「突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた」(使徒言行録2,2)と書かれているように、聖霊は、イエスの最後の食卓のあった空間を、弟子たち一同が一つになって集まっている場にもたらした。それは、聖体制定の日の出来事をことごとく思い出させ、ご聖体によって弟子たちの養成と救いの御業を続けるためであった。これは聖霊のもう1つの霊性である。
受肉した神であるイエスの現存は、弟子たちの養成と救いの御業の土台であった。神はこの土台を、イエスの昇天後、ご聖体によって維持していくように計画した。したがってイエスが成した聖体の制定は、神の計画にとって第2の受肉の神秘といえるほど重要であったといえる。そこでイエスは、「苦しみを受ける前に、あなたがたと共にこの過越の食事をしたいと、わたしは切に願っていた」(ルカ22,15)と語った。イエスはこの食事の準備のために、二人の弟子たちに、「都へ行きなさい。すると、水がめを運んでいる男に出会う。その人について行きなさい。その人が入って行く家の主人にはこう言いなさい。『先生が、「弟子たちと一緒に過越の食事をするわたしの部屋はどこか」と言っています。』すると、席が整って用意のできた二階の広間を見せてくれるから、そこにわたしたちのために準備をしておきなさい」(マルコ14,13~15、ルカ22,10~12)と命じた。ここで、「水がめを運んでいる男」が聖霊を、「その人が入って行く家の主人」が御父を表していたとすれば、聖体制定の場は、三位一体の神がそろっていた特別な空間であったことになる。
聖霊がもたらした空間で、司祭がイエスの勧め*に応え、「御体と御血になりますように」とイエスの名によって御父に願う祈りをするとき、聖霊の働きによってご聖体が生まれる。そして司祭がイエスの聖体制定の言葉を唱えるとき、聖霊によって現れるイエスの霊は、この司祭の活動に入り、司祭の口を通して、生きたイエスの言葉を語る。そして、これを聞く者でもある司祭自身の記憶に、このイエスの言葉を残し、彼を最後の食卓にいた一人の使徒にする。この司祭が、新たなミサで再び天の父に願って祈る時、彼の記憶から出る生きたイエスの言葉と聖霊の働きによって、ご聖体が再び生まれ出るためである。こうしてイエスの体と血が生まれ続け、神は、世の終わりまで具体的に我々とともにいるのである。
*「はっきり言っておく。あなたがたがわたしの名によって何かを父に願うならば、父はお与えになる。今までは、あなたがたはわたしの名によっては何も願わなかった。願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる」(ヨハネ16,23~24)。
荒れ野で悪魔の誘惑を受けたイエスが、「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある」(マタイ4,4)と答えたように、キリスト者も、ご聖体を食べただけで永遠の命を持った者、すなわち神として生きるわけではない。キリスト者が神として生きるためには「神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」必要がある。しかし、この申命記の言葉を真に実現することができるのは、神であるイエスただ一人である。なぜなら、イエスが「わたしの食べ物とは、わたしをお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることである」(ヨハネ4,34)と言っているからである。「神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」こととは、「わたしをお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げること」である。それは、イエスにとって、父から与えられた生きるための糧、真の食べ物であった。
そこでイエスは、「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。父である神が、人の子を認証されたからである」(ヨハネ6,27)と言った。「人の子」を認証したということは、自身を「人の子」と呼ぶイエスの名を、御父が永遠の命を持つ者、神の名として認証したということである。それは、神の認識をもたらす聖霊が、イエスの名によって遣わされ、イエスの霊として現存することになるからである。聖霊によって現れるイエスの霊は、人の活動に入り、その人を通して「神の口から出る一つ一つの言葉」を行い、成し遂げることができる。一方その存在を自分の荷として担ったこの人は、イエスの霊が成す救いの業を体験する。この体験を聖霊と共有することこそが、「人の子があなたがたに与える食べ物」である。イエスの名に栄光を与える(ヨハネ16,14参照)第3の受肉の神秘と言えるようなこの状況を、聖霊が現実に起こすために、ご聖体の神の現存は、その前にただ忍耐強く留まるキリスト者を、イエスの軛と荷によって直接養成する(マタイ11,29~30参照)。
つづく
2019年12月 広島にて
Maria K
コメント
コメントを投稿