6. ご聖体と永遠の命(3) (2020年3月修正版)

神は、すべての生き物に、実際に経験したことの記憶力を分相応に与えた。善悪の知識の木の実を食べて、知識を持つようになった人間は、その知識(知識の記憶)を、実際に経験したことの記憶をもとにして、認識にするのである。人が得た知識は、体験(実験)によって証明され、認識となる。この認識が共有されて、人類は飛躍的な発展と進化を遂げてきた。認識とは、知識の記憶と経験の記憶の合体である。 

永遠の命は、永遠に生きる者となることの認識である。神はこの認識を人々に与えるために、ただ神の知識だけを人に与えるのではなく、神の知識の記憶が実際に経験したことの記憶と合わさるように配慮してきた。人が持った知識が、見て、触れ、嗅ぎ、味わい、聞くことによって、実際に経験したことの記憶に裏付けられて、認識になるようにしたのである。神はまず、永遠に生きる者となる知識を木の実として人に与えようとした(創世記3,22参照)。次に、永遠に生きる者である神を人として与え、さらに、神の現存を、イエスの体と血であるパンと葡萄酒として、人に与えようとした。人が知識の記憶と経験の記憶を合体させて、永遠に生きる者となることの認識、すなわち永遠の命を持つように計ったのである。 

イエスは、男たちを選んで使徒とし、聖霊がこの使徒たちの協力によって、ご聖体を世に生み出すようにした。創世記で神は、「人」の肋骨の一部を抜き取り、その跡を肉でふさいで男とした(創世記2,21参照)。この肉でふさがれた記憶こそが、ご聖体が世に生まれ出るための聖霊の協力者のしるしである。そこで神は、アダム(男)に言った。「お前は顔に汗を流してパンを得る。土に返るときまで。お前がそこから取られた土に。塵にすぎないお前は塵に返る」(創世記3,19)。パンとは未来のご聖体を暗示している。労苦してご聖体を得る者は、土の塵から取られた男、すなわち新約の司祭たちである。 

こうして、神がアダム(男)に、未来の新約の司祭職について予告したとき、彼はまだエバと交わっていなかった。神は、アダムが童貞であるこの時点で、この予告をしたのである(「神学の河口」№5参照)。ここから神は、ご聖体を生むために聖霊の意志によって生きる神の言葉を記憶に抱え、神の現存するイエスの体の責任を持つ司祭が、同時に、子どもの意思を成人するまで抱え、その責任を持つ父親でいることを望まなかったことが分かる。しかし一方で、「産めよ、増えよ、地に満ちて、これを従わせよ」(創世記1,28)と命じた神にとって、アダムがそうだったように、人が父親となることは当然のことであった。 

そこでイエスは、この創世記の予告を実現するために、弟子たち、格別にすでに妻帯していた使徒たちに言った。「だれもがこの言葉を受け入れるのではなく、恵まれた者だけである。独身者に生まれついた者もいれば、人から独身者にされた者もあり、天の国のために自ら進んで独身者となった者もいる。これを受け入れることのできる人は受け入れなさい」(マタイ19,11~12)。ここで言われた「恵まれた者」が、未婚、既婚を問わず、男性の弟子を指していたことは、ここに至る場面でのやり取りから明らかである(マタイ19,3~10参照)。イエスのこの言葉は、男性の弟子たちが、天の国のために自ら進んで独身者となり、「恵まれた者」として、生涯乙女であったイエスの母の養子となって、彼女のポストに就き、聖霊と教会の間を母と子のようにつなぐ絆となるためであった。神は、この新しい司祭職の絆によってつながれた聖霊と教会の関係の上に、御父と御子の関係を与えるのである(「神学の河口へ」№4参照)。 

イエスの母の養子となって、聖体祭儀と赦す権能(ヨハネ20,21~23参照)を授けられた新約の司祭は、母体と胎児を連絡する器官である胎盤のように、動脈(ご聖体の秘跡)と静脈(赦しの秘跡)を持ち、聖霊とその体内でイエスの体に成長する教会との絆となる。そして、イエスが十字架上から血と水を流して子宮のように覆った「わたしの教会」(マタイ16,18)を、母なる聖霊と一体となって育成する。 

イエスは弟子たちに言う。「女は子供を産むとき、苦しむものだ。自分の時が来たからである。しかし、子供が生まれると、一人の人間が世に生まれ出た喜びのために、もはやその苦痛を思い出さない。ところで、今はあなたがたも、悲しんでいる。しかし、わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない。その日には、あなたがたはもはや、わたしに何も尋ねない。はっきり言っておく。あなたがたがわたしの名によって何かを父に願うならば、父はお与えになる。今までは、あなたがたはわたしの名によっては何も願わなかった。願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる」(ヨハネ16,21~24)。 

司祭が天の父に願う最高のものは、パンと葡萄酒が御体と御血になることである。聖霊はこの司祭の願いに応え、ご聖体が生まれ、「わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶ」とイエスが言った言葉が実現する。司祭がご聖体を上げ、イエスの聖体制定の言葉を唱えるとき、彼らは聖霊の介入を受け、生きたみ言葉を授かり、そして「あなたがたは喜びで満たされる」。司祭たちは、聖霊によって、教会生活の中で特別なたまものを享受し、受肉の神秘におけるイエスの母の役割を担う。そして彼女の願いが、イエスが水を葡萄酒に変えたイエスの初めのしるしの動機となったように(ヨハネ2,1~12参照)、司祭の願いは、聖霊がイエスのみ言葉によって、パンと葡萄酒を神の現存するイエスの体と血に変える動機となる。水が葡萄酒に変わったことを知っていたのは、イエス、イエスの母と彼女から命じられた「水をくんだ召し使いたち」、そして弟子たちであったように、パンと葡萄酒が、神の現存するイエスの体と血に変わったことを知っているのは、聖霊、司祭たち、そしてご聖体を拝領する者たちである。 

天の父が、御子のために受肉の神秘を用意したように、イエスも聖霊のために、いわば新しい受肉の神秘であるご聖体を用意した。受肉の神秘において、天使が、イエスの名を、御子の名として告げたとき、その名が啓示となって、完全に神であり人である方が宿った。イエスの成す、いわば新しい受肉の神秘において、イエスが、パンと葡萄酒を、イエスの体と血の名で告げたとき、その名が啓示となって、これらに神の命が宿った。意思を持つこともなく、人から作られた物でしかないこれらは、神の言葉「わたしはある」が宿って(ヨハネ8,58参照)、イエスの体と血として生きるものとなる。神の「わたしはある」は、永遠の命である。ゆえに、ご聖体は永遠の命である。ミサにおいて、聖霊と人とが合同で行うという、新しい神の現実がすでに始まっている。「今、世を去って、父のもとに行く」と言ったイエスの言葉は、わたしたちとともに、神の国での過ぎ越しの完成に向けて準備するのは、聖霊であることを伝えている。 
「わたしはこれらのことを、たとえを用いて話してきた。もはやたとえによらず、はっきり父について知らせる時が来る。その日には、あなたがたはわたしの名によって願うことになる。わたしがあなたがたのために父に願ってあげる、とは言わない。父御自身が、あなたがたを愛しておられるのである。あなたがたが、わたしを愛し、わたしが神のもとから出て来たことを信じたからである。わたしは父のもとから出て、世に来たが、今、世を去って、父のもとに行く」(ヨハネ16,25~28)。 

つづく 

2020年3月修正 広島にて
Maria K

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