5. ご聖体と永遠の命(2)



前回に続けて創世記を見ながら、創世記の記述と新約聖書の記述を関連させ、人の創造と受肉の神秘、そしてご聖体と司祭職の神秘へと考察をつなげていく。これによって、神の計画の流れをつかみ、ご聖体が永遠の命であることをはっきりさせていくためである。

聖書に書かれているイエスの言動からわかるように、神は意思を持っている。そこから、神が初めに人の鼻に吹き入れた命の息は、自由な意思であると考えることができる。これは、神から出た神のものであるから、被造物ではない。そして、自らを「我々」(創世記1,26、3,22、11,7、イザヤ6,8参照)と言う神が、三位の神の内で知識を共有していることがわかる。さらに神は、神である隣人を持って、この隣人である神と自発的に完全に一体となり、一体となっている自身を「わたし」と呼ぶ。神は、神の自発性によって、三位一体の神として存在している唯一の神であり(申命記6,4参照)、神の知識によって自発的に完全に一体となっている互いの意思の決定を知る必要がない。そこで神の意思から出た人の自由な意思についても、神はこの意思の決定を知る必要を持たない。これによって神は、人から見て、人の創造において、まるで全能性を一部放棄したかのようになった。こうして神は、人が自由な意思から自己を発現し、神のように「わたし」を表現して、神と関わることができるように計画した。

意思は知識を介して自己を発現させ、自己は、隣人の存在によって推し量られ確定し、「わたし」を現す。神は、人の自由な意思が自己を発現するために、人に知識を与えようとした。前回考察したように、自由な意思に自己の発現がなければ、聖霊と人と隣人の関係の中で、この三者の意思が、三者が一体になることを、神のように完全に望み実現することは起こらないからである。そこで神は、自己がまだ発現していない「人」が、自然に摂取できるように、知識を食べ物として与えようと考えた。

神は、東の方のエデンに園を設け、「人」をそこに置き、園の中央に命の木と善悪の知識の木を生え出でさせた。そして、見るからに好ましく、食べるに良いものをもたらすあらゆる木を地に生えいでさせ、「人」が自然に園の中央へ導かれるように配慮したのである(創世記2,8~9参照)。神から吹き入れられた自由な意思は、神の意思がそうであるように、永遠に生きる者となる命の木の実(創世記3,22参照)に引き寄せられるはずであった。しかし、「人」は命の木の実に引き寄せられなかった。

神はついに「人」に命じて言われた、「園のすべての木から取って食べなさい」(創世記2,16)。そして、「ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう」(創世記2,17)と警告した。この警告からは、神が、善悪の知識の木の実を、人に与えないつもりだったとはいえない。最終的に人は食べて現在に至っているし、神が、人が食べてはいけない木の実を生やす理由は、どこにも見つけられない。問題は、この神の働きかけがあったにもかかわらず、「人」は、命の木の実を取って食べなかったということである。神は、ついに「人」を二人に分けることに踏み切る。自由な意思が2つになれば、相乗効果によって、二人で命の木の実に引き寄せられ、それを取って食べるかもしれない。

聖書は、善悪を知る木の実を食べた後、「二人の目は開け、自分たちが裸であることを知り、二人はいちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした」(創世記3,7)と書いた。男と女が体の違いを隠すために、腰だけを覆ったところから、このとき二人は、まだ第二次性徴期を迎えていなかったことが推測できる。アダムとエバは、子供だったのである。そうであれば、人に知識を食べさせるためにあった神の苦労も、エデンの園を追放する時、幼い二人があまりに不憫で見るに忍びなかった神が、「アダムと女に皮の衣を作って着せられた」(創世記3,21)ことも察せられる。そして神は、まだ少年のアダムに、彼が園で神によって習い覚えた土を耕す仕事を、園の外でも続けさせることにしたのである(創世記3,23参照)。

創世記における人の創造は、3つの段階を踏んでいる。第1段階は、神が土(アダマ)の塵で「人」(アダム)を形づくった。次に、神は「人」から抜き取った肋骨で女を造り、その跡を肉でふさいで男とした(創世記2,21参照)。最後は、「こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる」(創世記2,24)と書かれているように、この二人から生まれた一体の人が、「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ」(創世記1,28)という言葉が実現された初めの人になる。「産めよ、増えよ」という神の言葉は、神が生き物に、生殖機能を与えたことを表している(創世記1,22参照)。人において初めて生殖機能が生かされて、一体の人が創造されたのは、エデンの園追放後、アダムとエバの体が成熟してからである。ここで生まれた初めの人は男であり、神が初めて「罪」と呼んだ行為をした(創世記4,7参照)。

神は御父の助け手である御子の体を(「神学の河口」4参照)、聖霊の介入によって一人の女性から創造した。イエスの体が、このように男性の協力なしに造られたのは、イエスが、預言によって男子として生まれなければならなかったとしても、母から母性を受け継ぎ、十字架上で死んだ後に血と水を流し、「わたしの教会」(マタイ16,18)を子宮のように覆い、教会にご自分の体を与えるようになるためであった。墓に収められたイエスの体が消えたという事実は、このことを物語っている。イエスは、十字架上から、ご自分の母と使徒を養子縁組で結び、聖霊の助け手となる男性であった使徒に、母性を与えた。聖霊の介入を受けて、彼らがご聖体を生み出すからである。教会にご自分の体を与えたイエスは、一方で神として黄泉に降り、過去に死んだ人の自由な意思に向かい、これらすべてを引き寄せ、主の牧場に導いた。

地上に降臨した聖霊の意志によって、地上に残った神の知識であるみ言葉は、生きたみ言葉となる。そして、生きたみ言葉がイエスの霊として、体を持って人々の間に住むために、イエスは最後の食卓で使徒たちと聖体制定を共有した。それは、受肉の神秘によって人々が体験した神の現存を、主の再臨まで人々の間に保ち、神が、神の養成と救いの業を自由に続けるためである。キリスト者がご聖体を食べる時、ご聖体は死ぬ。そして、ご聖体から抜け出た神の現存は、地上をさ迷い煉獄の苦しみを味わう死者の自由な意思に向かい、一人一人を主の牧場に連れて帰ることができる。もともと神の吹き入れた命の息であった自由な意思は、良い羊飼いである神の知識を知っている。こうして、この世でご聖体を拝領するキリスト者と、主の牧場で、主の再臨を待つ死者たちは、一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになるのである。

「わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。わたしは羊のために命を捨てる。わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる」(ヨハネ10,14~16)。
                                                                                                                                              つづく

2019年11月 広島にて
Maria K

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