3. ヨハネ福音記者のまなざし
ヨハネ福音書に描かれた、十字架のそばに立つ4人についての考察を進めていくにあたり、イエスに関わる出来事を見つめるヨハネ福音記者のまなざしについて、もう少し触れておきたいと思う。ヨハネ福音書においては、そこに書かれた史実や具体的な話の内容だけでなく、それらの言葉に隠されている「何か」に注目することが、共観福音書を含む聖書全体の理解のために効果を上げると、わたしは考えている。しばしばそこに隠された宝を見つけることがあるからだ。そこでは否応なく聖書を深読みすることになる。前回「全福音書を貫いてご聖体に向かうイエスのみ言葉に、ヨハネ福音記者のまなざしがある」と書いたが、それを深めるためにも、ヨハネ福音書の最後の夕食の場面に注目してみたい。
ヨハネ福音記者は、この場面に彼の福音書全体の五分の一を割き、様々な工夫を仕込んでいる。この場面を、「イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた」(ヨハネ13,1)で始め、次に、「夕食のときであった。既に悪魔は、イスカリオテのシモンの子ユダに、イエスを裏切る考えを抱かせていた」(ヨハネ13,2)と続けることによって、福音記者は、弟子を愛し抜くイエスの仕方を、すなわち神の仕方を、具体的に示すことに成功している。さらに「イエスは、父がすべてを御自分の手にゆだねられたこと、また、御自分が神のもとから来て、神のもとに帰ろうとしていることを悟り」(ヨハネ13,3)という言葉から、わたしたちも、創世記から始まる神の計画へと思いを馳せることができる。イエスがもたらした神の啓示は、天地創造の業の完成である。
創世記に目を向けると、ユダの上に重なっていく悲劇が、エデンの園において、神と人、そしてサタンと人の関係に起こった出来事と二重写しになっていることに気づく。ここにサタンに入られた二人の男が並んでいる。「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました」(創世記3,12)と言ったアダムと、「わたしは罪のない人の血を売り渡し、罪を犯しました」(マタイ27,4)と言ったユダである。神の言葉に背いたことの原因を神に帰したアダムのこの言葉は、ユダの言葉によって、相殺されていたことに気づく。ユダの告白の言葉は、ユダがイエスの受難と死によって贖われるはずのものであったことを暗示している。
この二人の男は、神が吹き入れた自由な意志を、サタンに売り渡したも同然だった。ユダは銀貨を神殿に投げ込んで立ち去り、首をつって死んだ(マタイ27,5参照)。サタンと関わって楽園を追放された人の最期も、このようであったかもしれない。しかし神は、人に皮の衣を作って着せ、土を耕す仕事を持たせて、人がエデンの園の外で生き続けていくように道をつくった(創世記3,21、23参照)。同じ神の憐みによって、ユダは、イエスの受難と死を元手に先に買い戻されていたことが、彼の告白の言葉からわかる。
イエスは、「食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた」(ヨハネ13,4)。主は裏切りを知りながら、他の弟子たちとともにユダの足を洗って清め、さらにパン切れを浸して取り、ユダに与え、彼はそれを受け取った。この場面の記述にわたしたちは、赦しの秘跡と聖体の秘跡を見つけないわけにはいかない。赦しの秘跡は、復活のイエスによって使徒たちに託された(ヨハネ20,21~23参照)。
マタイとマルコ福音書は、ユダにサタンが入った場面を描かない。一方ルカ福音書は、ユダが祭司長たちや神殿守衛長たちのもとに行き、イエスを引き渡そうかと相談をもちかける前に、サタンが入ったと記述している(ルカ22,2~5参照)。そうすると、イエスが聖体制定をして渡したパンと葡萄酒を、ユダの中に入ったサタンも、ともに受け取ってしまったことになる(ルカ22,14~20参照)。ヨハネ福音記者は、この点をはっきりさせ、「ユダがパン切れを受け取ると、サタンが彼の中に入った」(ヨハネ13,27)と書いた。これによって、サタンが、ユダの中に入ったのは、パンを受け取った後であったことを明らかに伝えている。したがって、イエスを裏切る行為を行ったのは、彼に乗り移ったサタンである。サタンが入ったユダの状態は、預言が実現するためにあった特殊な状態であったと言える。
イエスが、「『わたしのパンを食べている者が、わたしに逆らった』という聖書の言葉は実現しなければならない。事の起こる前に、今、言っておく。事が起こったとき、『わたしはある』ということを、あなたがたが信じるようになるためである」(ヨハネ13,18~19)と言ったように、イエスは、ユダを清め、「わたしのパン」を取らせる。この清めとパンは、サタンに入られたユダにさえ、「わたしは罪のない人の血を売り渡し、罪を犯しました」(マタイ27,4)と告白させる。イエスは裏切る者の名をけして言わない。預言の成就のために神を裏切る者はサタンだったからである。「生まれなかった方が、その者のためによかった」(マタイ26,24、マルコ14,21)とイエスが言われた「その者」は、サタンのことであった。
そこでイエスは、「しようとしていることを、今すぐ、しなさい」とサタンに言われた。だから座に着いていた者はだれも、なぜユダにこう言われたのか分からなかったのである(ヨハネ13,27~28参照)。このように、今も知らずにサタンの誘惑にさらされているわたしたちの意識を、ヨハネ福音書はイエスの清めと「わたしのパン」へ向けようとしている。まさに、「事が起こったとき、『わたしはある』ということを、あなたがたが信じるようになるためである」(ヨハネ13,19)。再臨の日、偽預言者(マタイ24,23~26、マルコ13,21~24参照)からキリスト者を守るのは、この清めとパンである。「神の国は、見える形では来ない」と言ったイエスが、「神の国はあなたがたの間にあるのだ」と言ったとき(ルカ17,20~21参照)、ご聖体を残す発想を持っていた。人に、この世にいる内から「わたしはある」を憶えさせるためである。
聖霊降臨を待つ間エルサレムの高間に集まっていた弟子たちもまた、ユダの身の上に起こった出来事をイエスの言葉どおりに預言の成就と解釈し、マティアを新しい使徒として選び出した(使徒言行録1,26参照)。こうしてユダの空席によって、現在まで続く使徒継承が始まったといえる。そして使徒とその後継者たちによって、ゆるしの秘跡と聖体の秘跡は生き続けてきた。ご聖体は、わたしたちが食べる時、わたしたちの内で新たに死ぬイエスである。こうしてイエスは、今も神の仕方によって、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜いている。ゆえにヨハネ福音記者のまなざしは、常にご聖体に向う。
つづく
2019年9月 広島にて
Maria K
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