4. ご聖体と永遠の命(1)



先日、「神学の河口」2を読んだ友人から質問があった。それは、ご聖体を永遠の命と言える根拠は何か、というものであった。わたしはここで、この問いにまず挑戦してから、先に進むことが良いと考えた。それは、十字架のそばに立つ4人についての考察に行きつくために、遠回りにならないだけではなく、益になると思われるからだ。上記の質問の答えは、創世記の解釈にその入り口があるとわたしは捉えている。そこで今回は、創世記の記述を追いながら話を掘り下げてみたいと思う。

創世記は「初めに、神は天地を創造された」(創世記1,1)と書いた。これは、初めに神が、ご自分の居場所と被造物の居場所を創造したことを示している。この天に人々を迎えるために準備しに行く、と告げたイエスの言葉からわかるように、神はこの後、まず被造物のために地上の場所を整えたのである。そこでわたしは、次に述べられている「地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた」(創世記1,2)というフレーズは、三位一体の神が動き出す前の、神の静の状態を表していると気付いた。「地は混沌であって」とは、御父の熱情のような憐みの意思が動かない状態を暗示し、「闇が深淵の面にあり」とは、御父がこの状態にあるとき、み言葉である御子が、沈黙している様子を示唆している。このことは、対照的に、神の動きが始まったことを表現している次の言葉からも推し量ることができる。
*「わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。」(ヨハネ14,2~3

「神は言われた。『光あれ。』こうして、光があった。」(創世記1,3)。「神は言われた」とは、御父のご意思が動き、意志となったことを示している。そして「光あれ」という言葉となって「光があった」、すなわち御父の意志が、言葉である御子によって成し遂げられたのである。ヨハネ福音書の冒頭に、「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった」(ヨハネ1,1~3)と書かれている通りである。まさにイエスが、「わたしを信じなくても、その業を信じなさい。そうすれば、父がわたしの内におられ、わたしが父の内にいることを、あなたたちは知り、また悟るだろう」(ヨハネ10,38)と言ったように、父と子は分かつことのできない絆で結ばれている。

このように互いに固く結ばれ、沈黙の状態にいる父と子に対して、「神の霊が水の面を動いていた」(創世記1,2)という描写に、三位一体の神でありながらも、一人でいる聖霊を思い描くことができる。そしてこの聖霊の姿が、四つの川が流れる広大なエデンの園に連れてこられ、一人そこを耕し守る「人」の描写と重なって見えることに、わたしは気付いた(創世記2,8~15参照)。そして、「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう」(創世記2,18)と言う神の言葉が、聖霊と「人」について、二重の意味で語られていると理解した。
 
神からこの言葉が出たのは、神の憐れみがより大いなる善に向けて神の意思を突き動かし、神の言葉になった瞬間であった。神が、「彼に合う助ける者」という言葉を使ったとき、「助ける者」はすでに存在した。それは、御父の意志を言葉にして成し遂げる御子である。御子こそが御父にとっての「彼に合う助ける者」であった。そこで神は、御子のイメージを持って人を創造したのである。そして、御父と御子の分かつことのできない絆を、聖霊と人の間に与えようとした。それは、聖霊によって、すべての人々が「神と人と隣人」の関係をつくり、この関係が、三位一体の神の似姿として完成するためであった。神の似姿として完成するとは、御父と御子の絆を包含した、聖霊と人と隣人の関係の中で、この三者の自由な意思が、三者が一体になることを、神のように完全に望み実現している状態である。

創世記には、「神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された」(創世記1,27)と書いてある。「神は御自分にかたどって」とは、御父と御子の関係を指し、「神にかたどって」とは三位一体の神の関係を指している。神はこれらの神の関係を人に与えるために、人を男と女に創造したのである。

「神は言われた。『光あれ。』こうして、光があった。神は光を見て、良しとされた」(創世記1,3~4)と書かれているように、御父の意思が動き、意志となって始まる神の動きは、「神は言われた」で示された御父の意志が、「『光あれ。』こうして、光があった」で示された御子の言葉と行為によって成し遂げられ、「神は光を見て、良しとされた」と書かれているように、聖霊の与える認識によって完結する一連の行為である。神は、行為を本質的に3者のペルソナによって成す一体の神である。一方、人の動きも、意思が意志となり、その意志が言葉と行為によって成し遂げられ、認識に至るという一連の行為である。人は1者のペルソナによって、本質的に神の動きに似た思考と実践の流れを持って成す一体の神の似姿である。この本質的に神に似ているところから、人は、神と人と隣人が一体になる恵みを受け取ることができる。

いわば人の存在こそが、神が三位一体であることを証明し、写しだす鏡である。そして、この神が与えた人の特性は、人々が他者と関わることで一体感を分かち合う望みにつながっている。この望みは、神が3者のペルソナから成る一体の神であることに由来する。創世記2章にあるように、神は初めに人を単独で創造した。それは神と人が、一対一で関わる経験をとおして、この三位一体の神の動きを、実際の体験として記憶に置き、初めの「人」を通して、すべての人の記憶にそれが残るようにするためであった。

そのために、「主なる神は人を連れて来て、エデンの園に住まわせ、人がそこを耕し、守るようにされた」(創世記2,15)のである。耕す行為と守る使命は、神の言葉である「すべてを支配させよう」(創世記1,26)の真の目的である。そして神は、「人」が独りの内に、次のような経験の機会を与えて、支配することの真の意味を、「人」の実際に経験したことの記憶に残した。

  神が「彼に合う助ける者を造ろう」と言った後に、「野のあらゆる獣、空のあらゆる鳥を土で形づくり、人のところへ持って来て、人がそれぞれをどう呼ぶか見ておられた。人が呼ぶと、それはすべて、生き物の名となった」(創世記 2,19)と記載されている。このことから、神にとって、「すべてを支配させよう」と言った言葉の意味は、世話をし守るために、生き物に名を付けることであった。しかし次に、「人はあらゆる家畜、空の鳥、野のあらゆる獣に名を付けたが、自分に合う助ける者は見つけることができなかった」(創世記2,20)と書かれているように、神は、「人」に、自分が支配したものの中には、けして助ける者を見つけることはできないことを体験させた。これらの記憶は、他の記憶とともに、後で「人」から造られた男と女が、実際に経験したことの記憶として、平等に受け継いで持っている。
                                                                           つづく
2019年 10月 広島にて
Maria K

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