2. 十字架上のイエスのもとへ天の父が引き寄せた人々
前回に続いて、イエスの十字架のそばに立っていた人々について考察していく。この場面は、ヨハネ福音書だけが記載している(ヨハネ19,25~26参照)。彼らは、「わたしをお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとへ来ることはできない」(ヨハネ6,44)とイエスが言ったように、天の父によって引き寄せられた人々であった。このみ言葉は、イエスが5千人にパンを与えた場面の翌日、イエスを捜して彼のもとにやってきた群衆に対して、イエスが語った言葉である。
ヨハネ6章でイエスが語る中心テーマは、永遠の命を得ることについてである。イエスは、群衆との対話の場面で、ご自身こそが命のパンであることを伝えている。イエスご自身である命のパン、すなわちご聖体が、永遠の命なのである。ここでイエスは、永遠の命を「得る」と断言し、その条件を具体的に示した。それは、全福音書の中で唯一、ヨハネ福音書にある次のみ言葉である。「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる」(ヨハネ6,53~54)。
わたしたちは、ヨハネ福音記者が伝えたイエスのみ心に気づかなければならない。人々がご聖体を食べて飲むことだけで、永遠の命を得ることができるように、すべてを準備したイエスのみ心は、エデンの園の中央に命の木を準備した神のみ心と同じである。わたしたちは、神がこの木からとって食べることを禁じなかったにもかかわらず、食べなかった初めの男と女のようであってはならない。初めに神が、善悪の知識の木の実を食べることを禁じたのは、人が命の木の実を先に食べるように願ったからだ。もし人が命の木の実を先に食べていたなら、人は土の塵から創られた肉体が滅びることに、死を見出さなかったであろう。後から食べる善悪の知識の木の実は、神が吹き入れた自由な意思をその知識によって助け、楽園の人々が、たびたび命の木の実を取って食べ、永遠の命を保つように、良く働いたことだろう。
ご聖体は、み言葉から成る命の木の実である。わたしたちは、ご聖体についての知識と恵みをすべて知り、受け取る必要がある。イエスが「はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている」(ヨハネ5,24)と言ったように、ご聖体を与えようと懸命に説得するイエスの言葉から、命の木の実を初めに与えようとした神のみ心を信じる者は、み言葉とご聖体を拝領するミサに向かって人生の舵をとろうとする。ミサに向かって時を生きるこの人は、永遠の命を得、裁かれることなく、死から命へと移る未来を、すでに生き始めているのだ。
そこでイエスは断言する。「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる」(ヨハネ6,53~54)。このイエスのみ言葉は、時を超えて、三共観福音書がそろって書いた聖体制定の場面を目指す。全福音書を貫いてご聖体に向かうイエスのみ言葉に、ヨハネ福音記者のまなざしがある。神が聖体を制定した究極の目的は、創世記の初めからあった神の計画の実現である。神に吹き入れられ、神のものである人の自由な意思は、永遠の命の知識と結ばれて、真の自由を得る。
「一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えながら言われた。『取って食べなさい。これはわたしの体である。』また、杯を取り、感謝の祈りを唱え、彼らに渡して言われた。『皆、この杯から飲みなさい。これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である』」(マタイ26,26~28)。
パンを食べて満腹した群衆の中には、イエスの超自然的な力と、人間的な魅力に引き寄せられ、自分からイエスに近づいて来た弟子たちがいた。彼らは、パンのことしか念頭にない群衆を前に、天の父のみ旨を忠実に懸命に伝えるイエスの真摯な姿を見て、失望を隠さない。かつてダビデが、麻のエフォドを着けて主の御前で力のかぎり踊ったのを見てさげすんだ、サウルの娘ミカルのように言う(サムエル下6,14~23参照)。「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか」(ヨハネ6,60)。イエスが、「こういうわけで、わたしはあなたがたに、『父からお許しがなければ、だれもわたしのもとに来ることはできない』と言ったのだ」(ヨハネ6,65)と言うと、「弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった」(ヨハネ6,66)とヨハネは記した。イエスが言う「わたしのもと」とは、イエスの十字架の下であることを、彼らは知らなかったのである。
永遠の命であるご聖体は、イエスの十字架の実りである。そこで、イエスは十二人に、「あなたがたも離れて行きたいか」と問う(ヨハネ6,67)。イエスの復活後、どのような死に方で、神の栄光を現すようになるかをイエスから示された(ヨハネ21,18~19参照)ペトロがそれに答えた。「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています」(ヨハネ6,68~69)。イエスが選んだ使徒たちの歩みは、このとき、十字架を目指すイエスとともにあったのである。
十字架上のイエスのもとへ天の父が引き寄せた人々は、イエスの死を目の当たりにした。そして、そのわき腹から流れ出した血と水を受けたに違いない。この場面で、格別に名前とイエスとのつながりがはっきり読み取ることができるのは、イエスの母、クロパの妻マリア、マグダラのマリア、愛する弟子の4人であった。彼らが、ご聖体の秘跡を受けることになる未来は、十字架上のイエスのもとへ天の父が引き寄せたことによって、保証されていた。彼らの運命は、聖霊が降臨した後、イエスが選んだ使徒たちの未来と合流している。使徒言行録にはこう書かれている。
「彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった」(使徒言行録2,42)。
「毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた。こうして、主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされたのである」(使徒言行録2,46~47)。
つづく
2019年8月 広島にて
Maria K
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