神学の河口14

「私は敵意を置く」



前回の考察によって、聖家族の役割と召命を持つ「私の教会」(マタイ16,18、「神学の河口」№8参照)は、「蛇の頭」を砕いたにもかかわらず、「お前は彼のかかとを砕く」(創世記3,15参照)という神の予告が実現したために、その効果が先送りになっていることがわかった。したがって、この予告が実現したのは、「私の教会」が、聖霊降臨によって創立された後の出来事であったと考えられる。ここで「彼のかかと」とは、イエスの霊を現す聖霊の創立した「私の教会」のかかとであり、「お前」とは、「人」が男と女として複数になったときから存在する「蛇」の情報である(「神学の河口」№11参照)。 

今回は、「お前と女、お前の子孫と女の子孫との間に、私は敵意を置く。彼はお前の頭を砕き、お前は彼のかかとを砕く」(創世記3,15)という神の予告全体を見て、人をサタン(悪魔)化させ(「神学の河口」№12参照)、「蛇の頭」を形成し(「神学の河口」№13参照)、「私の教会」に対抗し、「私の教会」が公に現れないようにする「蛇」の情報の働きについて、再び検討する。「蛇」の情報は、人を含む生き物が複数集まる時に、彼らの五感データの記憶に起こる、偶発的情報化の産物である(「神学の河口」№11参照)。 

「神は本当に、園のどの木からも取って食べてはいけないと言ったのか。」(創世記3,1)、「私たちは園の木の実を食べることはできます。ただ、園の中央にある木の実は、取って食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないからと、神は言われたのです」(創世記3,2~3)、という「蛇」と女の会話で表現された情報は、すべて女の五感データの記憶に発生した偶発的情報(「蛇」の情報)である。女が「私たちは」と言っているところから、この情報は男と女の間で共有されていた。 

神が「人」の肋骨から新たに創造した女は、目覚めて神を見て、次に男の前に連れてこられた(創世記2,22参照)。このとき「助け手」として創造された女は、神と男の違いを感じ取り、女の五感データの記憶に、この違いを賢さの違いとしてイメージする偶発的情報(「蛇」の情報)が発生した。したがって「いや、決して死ぬことはない。それを食べると目が開け、神のように善悪を知る者となることを、神は知っているのだ」(創世記3,4~5)という「蛇」の言葉は、女の五感データだけに発生した偶発的情報(「蛇」の情報)であった。この情報は、「女が見ると、その木は食べるに良く、目には美しく、また、賢くなるというその木は好ましく思われた」(創世記3,6)という印象を女に与えた。ここからも、人の五感データに発生する偶発的情報(「蛇」の情報)は、非常に知的で賢いことが分かる。 

このとき、「いや、決して死ぬことはない」という偶発的情報(「蛇」の情報)は、死を知らない女の五感データの記憶にあって、善悪の知識の木の実を食べた後も死が起こらず、死を知ることがなかったことから、五感データの記憶とつながった女の善悪の知識に、強固な認識として記憶された。そしてこの記憶は、女から人々に受け継がれていった。人々は、生きているその瞬間、自分は「決して死ぬことはない」という認識を強固に持ち、この認識の中で日常を生きるようになった。一方イエスは、生きているその瞬間から「必ず死ぬことになる」という神の計画を真摯に受け取って生きた。そして、実際に苦しみを受けて死に、黄泉に降り、三日目に復活したのである。このイエスこそが「決して死ぬことはない」という言葉を真理として言える神であった。イエスだけが、「私は復活であり、命である。私を信じる者は、死んでも生きる。生きていて私を信じる者は誰も、決して死ぬことはない。このことを信じるか」(ヨハネ11,25~26)と言うことができたのである。 

「園のどの木からでも取って食べなさい。ただ、善悪の知識の木からは、取って食べてはいけない。取って食べると必ず死ぬことになる」(創世記2,16~17)という神の言葉は、神の計画であった。神は、すべての生き物が、神の計画に沿って生きるために、神の命令を生き物の五感データの記憶に置く。これによって、自由な意思も知識も持たない生き物が、神の言葉に従って生きることができる。自由な意思があっても知識を持たなかった初めの「人」も、このようであった。しかし、男と女になった後、人が善悪の知識の木の実を食べたことによって持った善悪の知識は、彼らの五感データの記憶とつながり、そこに置かれた神の命令を取り込み、自分の知識にしようとする。しかし人は、善悪の知識がこの神の命令を記憶しても、神の計画を知ることはできない。知るためには、神の国とイエスについての福音を告げ知らせる人がいなければならないからである(使徒言行録8,12参照)。使徒言行録にあるフィリポとエチオピア人の宦官の話を読むと分かるように、主の天使と霊は、馬車に乗って預言者イザヤの書を朗読していた宦官のために、フィリポに働きかけ、フィリポは、聖書のこの箇所から説き起こして、イエスについて福音を告げ知らせたのである(使徒言行録8,26~35参照)。 

女は、五感データの記憶に置かれていたこの神の計画を、善悪の知識の記憶に取り込んだ。しかしこのとき女には、神の国とイエスについて福音を告げ知らせる人がなく、神の計画を取り込んでも、その意味を知ることがなかった。そこで、「必ず死ぬことになる」という神の言葉は、女の無知のままに、女の持った「決して死ぬことはない」という認識に相反する神の言葉として、善悪の知識の記憶に置かれた。これによって女は矛盾を抱えた(「神学の河口」№13参照)。 

そこで神が女に、「何ということをしたのか」(創世記3,13)と問うたとき、女は慌て、「蛇がだましたのです。それで私は食べたのです」(創世記3,13)と答えた。おそらく女は、常時五感データの記憶に発生している偶発的情報(「蛇」の情報)のイメージが、地を這う生き物である蛇の動きに似ていたことから、このとき思わず「蛇がだましたのです」と言ったのである。こうして、人として初めて矛盾を経験した女は、矛盾から逃れるために、意図せずに「蛇がだました」という架空の状態を作り出した。 

この出来事に対して神は、「お前と女、お前の子孫と女の子孫との間に、私は敵意を置く」と言って、無知のために女が「蛇」と言った偶発的情報(「蛇」の情報)を「お前」と呼び、擬人化した。イエスが、「持っている人はさらに与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。だから、彼らにはたとえを用いて話すのだ。見ても見ず、聞いても聞かず、悟りもしないからである」(マタイ13,12~13)と言ったように、このとき神は、善悪の知識に矛盾を持ち、持った矛盾を隠すために架空の状態に自分を置いたこの女を、その無知のままに残した。 

神が偶発的情報(「蛇」の情報)と女の間に「敵意」を置いたのは、初めに創造された女によって、これから矛盾を持つことになるすべての人々が、偶発的情報(「蛇」の情報)を善悪の知識に取り込んだ結果として持った矛盾を、神が置いた「敵意」によって解くためである。人はこうして自ら矛盾を解くとき、自分が矛盾を持ったことを認めることができる。そして次に人は、矛盾を持つ前に偶発的情報(「蛇」の情報)を治める必要があることを知るようになるのである。 

神は、「私は敵意を置く」と言う言葉によって、矛盾を解く機能を、善悪の知識に付加した。神は、エデンの園で「人」の肋骨から女を創造したとき、他の生き物と異なり、自由な意思と知識を持つ人にふさわしい母胎を、すでに完成していた。人の善悪の知識は、母の胎内にいるときから発達を始める。このため、善悪の知識に後で付け加えられた「敵意」の機能は、これを持つ子を身ごもる母胎に大きな負担を与えることになった。そこで神は女に、「私はあなたの身ごもりの苦しみを大いに増す。あなたは苦しんで子を産むことになる」(創世記3,16)と予告したのである。 

一方、善悪の知識の木の実を女から渡されて食べた男は、それによって持った善悪の知識が、彼の五感データとつながり、偶発的情報(「蛇」の情報)を急速に取り込んでいった。そして彼の善悪の知識は、五感データの記憶に、「妻が木から取ってくれた」というデータを見つけた。そこで彼は、「食べた」という自分の行為の原因を、妻の行為の延長線上に置いて、「あなたが私と共にいるようにと与えてくださった妻、その妻が木から取ってくれたので私は食べたのです」(創世記3,12)と言った。しかし、女が彼に木の実を取って渡したことが食べた原因だったとしても、彼の五感データに残る、食べることを禁じた神の言葉との間に矛盾が生じた。そこで、「あなたが私と共にいるようにと与えてくださった妻、その妻が・・」と言って、矛盾を持った原因を神の行為に帰し、五感データに残る自分の行為の記憶を正当化したのである。 

カインは、矛盾を解くために神が置いた「敵意」の機能が初めて働いた人であった。殺人の罪を犯した彼は、神に問われたとき、彼の父アダムが「あなたが私と共にいるようにと与えてくださった妻、その妻が木から取ってくれたので私は食べたのです」と答えたのと同じように、「知りません。私は弟の番人でしょうか」と答えた。彼は、自分が犯した殺人の原因を、彼の供え物に目を留めなかった他者の行為に帰し(「神学の河口」№13参照)、自身の行為を正当化しようとしたのである。しかし神が「何ということをしたのか。」と問うた後には、同じ問いを神から向けられた彼の母のように、架空の状態を作り出すことはなかった。彼は、「私の過ちは大きく、背負いきれません。」と答えた。女の子孫であるカインと、「蛇」の子孫である矛盾との間に神が置いた「敵意」によって、彼は自ら矛盾を解き、自分が罪を犯したことを認識にしたのである。 

人は、神が置いた「敵意」を矛盾に向けるとき、神の仕方(神の計画)と偶発的情報(「蛇」の情報)との間に何の関係もないことを知る。人が、偶発的情報(「蛇」の情報)を、神の命令に忠実に従って(創世記1,28参照)、他のあらゆる生き物を治めるように治めようとするとき、人の善悪の知識は、神の計画だけが人の知識として記憶すべき唯一の善であることに目覚めていく。善悪の知識は、このためにこそ、神が人の自由な意思のために創造した知識であった。善悪の知識とは、神の計画、すなわち神の仕方だけが唯一の善であり、それ以外はすべて悪となることを記憶し、人の自由な意思を、この世で唯一善そのものである聖霊に向け、人の自由な意思がイエスの霊に従うように働く知識なのである。 

神は、人が矛盾を持ったとき、それを自分に隠し、架空の状態を作ってそこに逃げ込み、持った矛盾を見ないようにするのではなく、また、矛盾を持った原因を他者の行為に帰し、五感データに残る自分の行為の記憶を正当化するのでもなく、神の置いた「敵意」によって矛盾を解き、自分が成した行為を受け止めるように計らった。神の置いた「敵意」は、人に、偶発的情報(「蛇」の情報)を自分の知識に取り込み、自身をサタン(悪魔)化して行為に至ったことを認めさせ(「神学の河口」№12参照)、自分が犯した罪に対する責任を果たす勇気を奮い起こさせる。神は、人がその責任を果たしながら、罪の根源である偶発的情報(「蛇」の情報)を区別し、治めるようになることを望んだ(「神学の河口」№12参照)。このために神は、人の善悪の知識の働きに、矛盾への「敵意」を加えたのである。 

これらの考察からみると、福音書の中のイエスは、「お前の子孫と女の子孫との間に、私は敵意を置く」という神の言葉を、実際に、忠実に生きていたことが分かる。人としても矛盾とは全く関係のないイエスは、偶発的情報(「蛇」の情報)を取り込み、そこに起こる矛盾を持っているために、彼に反対する多くの人々の姿を、彼の外に見たのである。イエスは、人々の中に巣食い、人々をサタン(悪魔)化する矛盾に「敵意」を持って臨んだ。これによって、「御覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。剣があなたの魂さえも刺し貫くでしょう。多くの人の心の思いが現れるためです」(ルカ2,34~35)というシメオンの預言が、イエスとイエスの母の上に実現したのである。 

受難と十字架上の死において、そこに見ることのできるイエスの姿は、創世記に矛盾を解くために神が置いた「敵意」そのものであった。三共観福音書が記述したように(マタイ27,32、マルコ15,21、ルカ23,26参照)、兵士たちがイエスの十字架をクレネ人シモンに背負わせたことは、「私の過ちは大きく、背負いきれません」と言ったカインの言葉を連想させる。殺人の罪を犯したカインは、「あなたは今日、私をこの土地から追放されたので、私はあなたの前から身を隠します。私は地上をさまよい、さすらう者となり、私を見つける者は誰であれ、私を殺すでしょう」(創世記4,14)と言って自分に降る罰を預言した。しかし神は、神の置いた「敵意」によって、自分が持った矛盾を解き、罪を認めたカインを赦した。そして、彼が預言した罰を、神が代わって引き受け、人となって苦しみ、死んで黄泉に降り、復活することによって、すべての人の罪の贖いを成し遂げるようにしたのである(「神学の河口」№13参照)。 

また、イエスとイエスの十字架の右と左に共に付けられた二人の犯罪人とのやり取りは(ルカ23,39~43参照)、イエスの存在そのものが、神の置いた「敵意」になったことを証ししている。「お前はメシアではないか。自分と我々を救ってみろ」という一人の犯罪人の言葉に、もう一人は、「お前は神を恐れないのか。同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」と言うことができた。それは彼が、十字架上で神の置いた「敵意」そのものとなったイエスの存在によって、自分の持つ矛盾を解いたからである。そして、「イエスよ、あなたが御国へ行かれるときには、私を思い出してください」と言った彼に、イエスは、「よく言っておくが、あなたは今日私と一緒に楽園にいる」と答えた。イエスを罵倒した犯罪人も、このやり取りに黙らざるを得ず、改心したに違いない。イエスは、かつてニコデモに語ったときの言葉を、この瞬間実現したのである。「モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。御子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ3,14~16)。 

神は、人の善悪の知識が持った矛盾を解くために、「蛇」の子孫である矛盾と女の子孫との間に「敵意」を置いた。それは、すべての人々の罪を、イエスが贖うためであった。父の御心を知り尽くす神であるイエスは、神の置いた「敵意」を存分に使い、天の父のみ旨を成就した。さらにイエスは、聖体制定によって、「私の教会」にご聖体を置いた。神の現存するご聖体は、イエスのからだであるところから、矛盾を解くための「敵意」を受け継いでいる。ご聖体が継承した神の置いた「敵意」は、ご聖体を受け取って食べるキリスト者が、ご聖体と向き合うとき、この人が持っている矛盾を解こうとして働く。ご聖体の働きを受け入れて、自分が矛盾を持っていたこと、また持っていたことを隠すために罪を犯したことを悟ったキリスト者は、カインがそうであったように、「私の過ちは大きく、背負いきれません」と神に言わないではいられない。このキリスト者のために、復活したイエスは、使徒たちに息を吹きかけて、次のように言って彼らに罪を赦す権能を授けた。「聖霊を受けなさい。誰の罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される」(ヨハネ20,22~23)。次にイエスが「誰の罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る」(ヨハネ20,23)と付け加えた言葉は、彼らが、聖霊を受けてイエスから与えられた赦す権能を行使せず、罪を赦さなければ、その罪は彼らの前に赦されないまま残るという現実を伝えている。 

聖霊降臨を迎えて、神の救いの計画は成し遂げられた。その一方で「蛇」の情報の働きによって、「お前は彼のかかとを砕く」という神の予告が実現している。この二つの現実が、同時に存在していることは、矛盾である。今回の考察によれば、この矛盾は神の置いた「敵意」によって解くことができるはずである。次回からはこのことを念頭に考察を先へ進めていく。 

つづく 

2020年5月 広島にて
Maria K

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