神学の河口13
人間の仕業(蛇の頭)
神にとってカインは、「産めよ、増えよ、地に満ちて、これを従わせよ」(創世記1,28)と言った神の言葉が実現した初子であった。神がカインの誕生をどれほど心待ちにしていたか推し量られる。しかしカインは、「蛇」の情報を基にサタン(悪魔)化し生きる両親から生まれ(「神学の河口」12参照)、彼らのもとで成長した。やがて弟アベルも生まれ、羊を飼う者となり、カインは土を耕す者となった。しかしカインの仕事は、彼の父母の行為によって「土は呪われてしまった」(創世記3,17)ために、厳しいものになっていた。これは彼の重荷であった。彼は両親から、体だけでなく、過ちの結果も引き継いだのである。
前回の考察を踏まえると、カインには3人の主がいたと言える。彼の母を「すべての生ける者の母」として名を付け治める父、彼を主によって得たと言った母、そして、彼の善悪の知識が神の仕方を知ることができるように、近くから彼に手を差し伸べ、教え導く神である。そこで、「主はアベルとその供え物に目を留められたが、カインとその供え物には目を留められなかった。カインは激しく怒って顔を伏せた」(創世記4,4~5)という描写からは、ここで言う「目を留められなかった」主が、カインにとって、神であったのか、父母であったのか、わからない。
しかし次に、「どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。もしあなたが正しいことをしているのなら、顔を上げられるはずではないか。正しいことをしていないのなら、罪が戸口で待ち伏せている。罪はあなたを求めるが、あなたはそれを治めなければならない」(創世記4,6~7)とカインに語りかけた主は、人の考えをすべて知っている主、神である。また、カインがアベルに声をかけ、アベルを襲って殺したことを知って、「あなたの弟アベルは、どこにいるのか」(創世記4,9)と驚きの声を上げた主は、人の自由な意思の決定を知る必要のない主、神である(「神学の河口」№5参照)。
神は、カインの善悪の知識に語りかける。「正しいことをしていないのなら」とは、善悪の知識が、神の仕方に向くことなく、「蛇」の情報を基に物事を善か悪かに裁くことをするなら、ということである。この裁きを、罪が戸口で待ち伏せている。戸口とは、罪の源である「蛇」の情報から、行為に至るきっかけとなる言葉を指す。その言葉は、イエスが荒れ野で対峙したように、「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ」、「神の子なら、飛び降りたらどうだ」、「もし、ひれ伏して私を拝むなら、これを全部与えよう」といったものである。それは、善悪の知識にとって「蛇」の情報を行為にすることを、段階を踏んで正当化するものである。しかし、人が行為を成し遂げてみると、その正当化は架空のものであったことがわかり、人は矛盾を持つことになる。矛盾は人をサタン(悪魔)化する。そこで神は、「罪はあなたを求めるが、あなたはそれを治めなければならない」と言っているのである。罪を治めるためには、罪がまだその源である「蛇」の情報であるときに、イエスがしたように、神の仕方と区別して治めていなければならない(「神学の河口」№12参照)。
カインはアベルを殺し、ここに初めて神が罪と呼ぶ行為が起こった。殺人は、人の善悪の知識が「蛇」の情報と密接につながり、人がサタン(悪魔)化して起こる「人間の仕業」である。神である主から、土の塵で形づくられた人は(創世記2,7参照)、塵だから、塵に帰る(創世記3,19参照)。ここで言われている塵とは人の死を象徴している。そこで、「お前は這いずり回り、生涯にわたって塵を食べることになる」(創世記3,14)と神が「蛇」に言った言葉によって、「蛇」の情報の行き着く先に、人の死があることが分かる。
主は言われた。「何ということをしたのか。あなたの弟の血が土の中から私に向かって叫んでいる。今やあなたは呪われている。あなたの手から弟の血を受け取るため、その口を開けた土よりもなお呪われている。あなたが土を耕しても、その土地にはもはや実を結ぶ力がない。あなたは地上をさまよい、さすらう者となる」(創世記4,10~12)。神が父アダムに「あなたのゆえに、土は呪われてしまった」(創世記3,17)と言った言葉は、カインによって「今やあなたは呪われている」と言う言葉に替わった。サタン(悪魔)となった彼の父母の行為が、神の創造した世界のすべてに影響を与え、息子カインから、「人間の仕業」が起こった。今や人そのものが呪われた者となったのである。カインは主に言った。「私の過ちは大きく、背負いきれません」(創世記4,13)。
カインが言ったこの言葉は、御父の憐みを激しく動かした。カインの言葉は、善悪の知識を持った後、人が言い訳なしに、矛盾を自分に隠すことなく、初めて神に率直に自分の気持ちを伝えた言葉であった。神は、彼の父母にはなかったこの行為を受け取った。そして神ご自身が、人に代わって人の過ちと罪を背負うことを決めた。「あなたは今日、私をこの土地から追放されたので、私はあなたの前から身を隠します。私は地上をさまよい、さすらう者となり、私を見つける者は誰であれ、私を殺すでしょう」(創世記4,14)と彼が言った言葉も、彼に代わって神は引き受けたのである。神の独り子は、天を離れて遣わされ、人となって人々の前に現れ、地上を回って宣教する者となり、ついに見つけられ、殺される。キリストは、神であった。神は、カインを見つける者が誰であれ、彼を打ち殺すことのないように、カインに印を付けた。そして、彼を「さすらう者」にはせず、エデンの東のノドの地に住むようにさせた(創世記4,15~16参照)。神は、「あなたは今日、私をこの土地から追放されたので、私はあなたの前から身を隠します」と言った彼を、命の木に至る道のそばに置いたのである(創世記3,24参照)。
罪は、初めに創造された家族から生じた。人が「蛇」の情報によって集まるところには、人の権威を誇示して神に対抗するサタン(悪魔)と、架空の神秘によって他者を支配するサタン(悪魔)が現れて、「蛇の頭」を形成する。「蛇」の情報と密接につながり、サタン(悪魔)化した父と母と子の関係の只中で形成された「蛇の頭」は、原家族から、次の家族へと受け継がれ、やがて地域共同体へと普遍的に広がっていく。
一方、人が「イエスの名」によって集まるところには、イエスの霊が現れて「私の教会」(マタイ16,18参照)を形成する。イエスが成し遂げる罪の赦しを、この地上に持続させるために(マタイ18,15~19参照)、また、神の国で過越が成し遂げられるために(ルカ22,16参照)、イエスは、「二人または三人が私の名によって集まるところには、私もその中にいるのである」(マタイ18,20)と約束した。「私の名によって集まるところ」とは、初めに天使から告げられた「イエスの名」を受け取り、受肉の神秘と十字架の神秘を経験した聖家族を暗示する。「二人または三人が私の名によって」とは、「イエスの名」を含む聖家族の構成を示唆し、二人がイエスとマリアを、三人がイエスとマリアとヨセフを表している。この聖家族の構成は、「天の国のために自ら進んで独身者となった者」(マタイ19,12)の召命とともに、イエスの十字架のそばで誕生した「私の教会」に、役割として与えられた(「神学の河口」№8参照)。「私もその中にいるのである」とは、具体的に神が現存する「イエスの名」で呼ばれるご聖体を指している。
「イエスの名」によって集まる人々は、「私の教会」を構成する。聖家族の役割と召命を持つ「私の教会」は、「蛇」の情報によって集まる人々が形成する「蛇の頭」を、その存在によって砕く構造を持っている。そこで、聖霊降臨によって創立された「私の教会」は、「蛇の頭」を砕いたに違いない。しかし現在、「私の教会」の姿はなく、人間の仕業が続いていることは、「蛇の頭」を砕いたことの効果が、先送りになっていることを表している。この事実は、「お前は彼のかかとを砕く」(創世記3,15参照)という予告が実現していたということを物語っている。次回からこの推理にそって考察していく。
つづく
2020年4月 広島にて
Maria K
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