神学の河口8
十字架のそばに立つ4人
№1で始めた、十字架上のイエスのそばへ天の父が引き寄せた4人についての考察を再び始める。わたしは、キリスト者が「人間の仕業」をなぜ終わらせることができないのか、という問いの答えに、なんとかして近づくために十字架の場面から入った。ヨハネ福音記者が十字架のそばにいる人々を、イエスの母、クロパの妻マリア、マグダラのマリア、愛する弟子と特定したということに注目したためである。
前回までの4回は、ご聖体が永遠の命であることの証明にあてた。この時、ご聖体と切り離すことのできない司祭職について同時に考察したことによって、十字架上でイエスが愛する弟子に母を引き取らせた目的が明らかになった。それは、聖霊の協力者となる男性を使徒とし、母性を与え、彼らが聖霊の介入を受けてご聖体を生み出し、赦す権能とともに胎盤となって、聖霊と人の間に母と子の関係を造るようになるためであった。この関係の上に、神は、御父と御子の分かつことのできない絆を与えるのである(「神学の河口」4参照)。そこで、聖母がいた二つの共同体、福音書に描かれた聖家族と、使徒言行録に描かれた聖霊降臨を待つ人々の共同体について、時間的に間にある十字架のそばの4人を介して考察する。
父と子と聖霊の関係を保っている神の第2のペルソナであり、同時に人でもあるイエスのために、神は、聖家族が三位一体の神の関係と同じ関係を持つことを望み、聖家族は、各々がこの神の望みを受け取ったと考えることが有要である。聖家族は、神の独り子であるイエスが、人としても独り子であるために、また、マリアがいと高き方の力に包まれていたために、天使の言葉に従って母と胎内の子を家に迎え入れたヨセフもともに、「天の国のために自ら進んで独身者となった者」(マタイ19,12)という召命を受け取って生きた最初の共同体だったといえる。この聖家族の特徴は、これが家族ではなく様々な人々が集まり交わる公の共同体であれば、必須の条件となる。聖家族はこの条件を初めから持っていたのである。
十字架のそばに立つ4人は、イエスの母が愛する弟子に引き取られたことによって、3つの立場の人々となった。この観点からこの人々を見ると、聖家族の3人の3つの役割に当てはまることに気づく。クロパの妻マリア(「クロパの母マリア」と訳す聖書もある)が既婚者としてヨセフに、マグダラのマリアは、マグダラが地名であることから独身者と捉えてイエスに、そしてイエスの母を引き取った愛する弟子はイエスの母とともに、イエスの母マリアにそれぞれが当てはまる。天の父がイエスの十字架のそばに引き寄せた人々は、受肉の神秘を受け取った聖家族と同じ構成を取っていたのである。
次に彼らが、聖霊降臨を待つ共同体に合流した段階で、彼らの3つの役割がどのように変化したかを見ていく。ルカ福音記者の描いた聖霊降臨を待つ弟子たちの構図を見ると、聖家族がヨセフの死によって、イエスの母とイエスの2人になったように、ヨセフの役割が、イエスの母マリアとイエスの役割に吸収され、3つの役割から2つの役割に収れんしていったことが分かる。「彼らは都に入ると、泊まっていた家の上の部屋に上がった。それは、ペトロ、ヨハネ、ヤコブ、アンデレ、フィリポ、トマス、バルトロマイ、マタイ、アルファイの子ヤコブ、熱心党のシモン、ヤコブの子ユダであった。彼らは皆、婦人たちやイエスの母マリア、またイエスの兄弟たちと心を合わせて熱心に祈っていた」(使徒言行録1,13~14)。
使徒言行録の記述によると、聖霊降臨を待つ共同体には、聖霊の協力者となる使徒たちがいた。この使徒たちに続いて、「婦人たち」が最初に置かれている。この婦人たちは、福音書の記述から推察すると、マグダラのマリアを筆頭に、独身と思しき女性たち、寡婦、そして、当時の女性の立場を考えると、クロパの妻マリアのように、夫がイエスの兄弟と呼ばれ、その道に従う者となった人の妻たちであった。彼らはイエスの周りにいて、イエスが聖霊のために弟子たちを養成する共同体を助けていた(ルカ8,1~3参照)。イエスが自らを「食事の席に着く人と給仕する者とは、どちらが偉いか。食事の席に着く人ではないか。しかし、わたしはあなたがたの中で、いわば給仕する者である」(ルカ22,27)と言ったように、またイエスが、御父の意志をみ言葉と行為にして成し遂げ、御父を助ける者であったように、彼女たちは、助ける者としてのイエスの役割をすでに具体的に生き、神の望んだ真の「助け手」となっていた。
次に、「イエスの母マリア」の名が置かれている。ここで「イエスの母」に十字架の神秘が、「マリア」に受肉の神秘が暗示されているところから、この名の後に置かれた「イエスの兄弟たち」とは、使徒たちに続く男性の弟子たちを示している。使徒は、イエスが十字架上でイエスの母と使徒を養子縁組したために、そのときからイエスの兄弟である。復活したイエスも弟子たちを「わたしの兄弟たち」と呼んでいる(ヨハネ20,17参照)。この後、ペトロの提案に従って選出されたヨセフとマティアの二人は、この人々の中から選ばれたと考えられる(使徒言行録1,21~26参照)。そこでヨハネ福音記者は、「クロパの妻マリア」を、そのように生きる夫を持つ妻として、単独でイエスの十字架のそばに立つ姿を描いた。
聖霊降臨を待つ共同体の構成員には、「わたしの教会」(マタイ16,18参照)として、聖霊である神と三位一体の関係を築くために召し出された新しい男女の姿が描かれている。聖霊の協力者となるためにイエスの母マリアのポストを継承した使徒たちと、彼らに続く男性たち、そしてイエスのポストを継承し、神が「人が独りでいるのは良くない。彼にふさわしい助け手を造ろう」(創世記2,18)と言ったところの真の「助け手」となった婦人たちである。これらにはヨセフのポストを継承した既婚の男女がそれぞれ含まれている。ここで、「クロパの妻マリア」が「クロパの母マリア」であれば、このマリアは寡婦と見なされ、独身者のマグダラのマリアとともにすぐ協働することが可能である。この場合、十字架のそばにいた4人の人々は、イエスの母が愛する弟子に引き取られた時点で、すでにヨセフの役割が吸収されていて、イエスの母マリアの役割と、イエスの役割の2つに分かれていたことになる。
ここにおいて、イエスの十字架のそばに立つ4人は、聖家族がヨセフの死を受け取ったように、3つの役割が2つの役割に動いていくという構成と、「天の国のために自ら進んで独身者となった者」という召命を持つ「わたしの教会」の初めだったと言える。そして聖霊降臨を迎えた共同体は、聖家族の構成と召命を持っていた。イエスの「見なさい。ここに私の母、私のきょうだいがいる。天におられる私の父の御心を行う人は誰でも、私の兄弟、姉妹、また母なのだ」(マタイ12,49~50)と言った言葉で表された人々は、聖霊降臨を待つ共同体と合致する。公生活に入ったイエスは、聖霊降臨を念頭に置いて、人々に天の父の名を伝え、「わたしの兄弟」、「わたしの姉妹」、「わたしの母」と呼ばれる人々の在り方を示した。ここにすでに「わたしの教会」の素描がある。
つづく
2020年1月 広島にて
Maria K
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