神学の河口12

人間の仕業(サタン、悪魔)




「人は妻をエバと名付けた。彼女がすべての生ける者の母となったからである」(創世記3,20)と書かれているように、男が女に名を付けたという事実は、男がエデンの園から追放される直接の原因になった。

「私はあなたの身ごもりの苦しみを大いに増す。あなたは苦しんで子を産むことになる。あなたは夫を求め、夫はあなたを治める」(創世記3,16)という神の言葉の意味は、この時、童貞と処女であった2人には分からなかった(「神学の河口」№5参照)。男は、「夫はあなたを治める」という言葉を、「妻をエバと名付けた」ことによって実現した。男は、神の前で女を治める権威を誇示したのである。「人」が生き物に名を付けたように(創世記2,19参照)、妻に名を付けた男の行為は、初めから人を男と女とに造り、2人を祝福し、彼ら2人に、「あらゆる生き物を治めよ」と命じた神の言葉を(創世記1,27~28参照)、無視している。そして、自分が名を付けた生き物には、自分にふさわしい「助け手」を見つけることができなかった(創世記2,20参照)、という「人」の経験にも反するものであった(「神学の河口」№4参照)。

男の行為の根拠は、「蛇」の情報であって、それを裏付ける神の言葉は、彼の五感データには存在せず、彼は矛盾を持つようになった(「神学の河口」№11参照)。そこで男は、「子を産む」という神の言葉から、妻がすべての生ける者の子を産むと捉え、これを妻に名を付けた理由にした。男は自分の成した行為を正当化したのである。この男の中には、神の仕方を無視し、神と無関係に進化し、人の権威を誇示して神に対抗するサタン(悪魔)が出現した。サタン(悪魔)とは、神と聖書が語るように、「蛇」の情報が人格化した姿である。サタン(悪魔)は、人が自己に矛盾を持ち、これを自分に隠そうとするとき、その人の中から現れる。このとき人はサタン(悪魔)化したのである。そこで神は、「人を追放し、命の木に至る道を守るため、エデンの園の東にケルビムときらめく剣の炎を置かれた」(創世記3,24)。

夫とともにエデンの園を追放された後、エバは成熟し、「人は妻エバを知った。彼女は身ごもってカインを産み、『私は主によって男の子を得た』と言った」(創世記4,1)。神は確かにカインの誕生を望んでいた。しかし、カインに体を与えるために協力したのは夫である。「私は主によって」と言ったエバの言葉は、架空の神秘を語っている。彼女は、「私はあなたの身ごもりの苦しみを大いに増す」と言った神の言葉から、「私は主によって身ごもった」と捉えた。さらに「男の子を得た」と言った彼女の言葉は、彼女が男の子を自分のものとして捉えた可能性を示唆している。これらの言葉は、男が、父母を離れて妻と結ばれ(交わり)、二人が一体となった子が生まれる(創世記2,24参照)という事実に反している。また神が、男と女をともに祝福して言った、「産めよ、増えよ、地に満ちて、これを従わせよ」(創世記1,28)と言う命令を無視するものであった。

この女の中には、神の仕方を無視し、神と無関係に進化し、架空の神秘によって他者を支配していこうとするサタン(悪魔)が出現した。「蛇」の情報が人格化し、「助け手」としての性質を持つ女の中から姿を現したのである。エバは、アダム同様にサタン(悪魔)化したのである。イエスは、群衆の中から、「なんと幸いなことでしょう、あなたを宿した胎、あなたが吸った乳房は」(ルカ11,27)と声を張り上げて言った女に、「むしろ、幸いなのは神の言葉を聞き、それを守る人である」(ルカ11,28)と応じた。また、「私の母、私のきょうだいとは、神の言葉を聞いて行う人たちのことである」(ルカ8,21)と教え、ご自分の母に向かって、「女よ」と呼びかけ(ヨハネ2,419,26参照)、すべての人に、架空の神秘に支配されないように教えたのである。

荒れ野の悪魔の試みの場面(マタイ4,1~11参照)では、イエスが、「蛇」の情報を擬人的に捉え、サタンと呼び、退けている。それは、これを読む者が、「蛇」の情報を、イエスに倣って神の仕方と区別し、治めることによって、矛盾に至らないためである。全能の神として記憶そのものであり、神の知識をみ言葉にするイエスは、一方で完全な人として、人の体に備わる五感データの記憶と、常に完璧に神の仕方を自身の言葉と行為につなげる善悪の知識を持って人を経験し、「蛇」の情報を自然の一部として治めていた(「神学の河口」№11参照)。そこでイエスも「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ」、「神の子なら、飛び降りたらどうだ」、「もし、ひれ伏して私を拝むなら、これを全部与えよう」というような、「蛇」の情報を持っていたと言える。イエスが、「誰でも、十分に訓練を受ければ、その師のようになれる」(ルカ6,40)と言ったように、人は自身の「蛇」の情報を、師イエスのように神の仕方と区別し、治めることができる。このためにイエスは、人々が聖霊降臨の後、聖霊の2つの霊性(「神学の河口」№7参照)によって訓練されるために必要なすべてを、準備して行ったのである。

「あなたがたは私を何者だと言うのか」というイエスの問いに、ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えたとき、イエスは、「バルヨナ・シモン、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、天におられる私の父である」と言っている(マタイ16,15~17参照)。ペトロが天の父の意志と直接つながったのは、彼の善悪の知識がイエスに訓練されていたからである。ペトロはイエスに集中し、イエスとつながり、イエスとともに神の仕方の真っただ中にいた。そして、人として現存する神を、五感データに記憶していたのである。それは、彼の善悪の知識に神の現存の認識をもたらす。

しかし次にイエスが、多くの苦しみを受けて殺され、復活することを弟子たちに打ち明け始めた場面で、ペトロは、イエスを脇へ連れて行きいさめて言った。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」(マタイ16,22)。この彼の行為の基になっているのは、神の仕方とは無関係な「蛇」の情報であった。そこでイエスは、「サタン、引き下がれ。あなたは私の邪魔をする者だ。神のことを思わず、人のことを思っている」(マタイ16,23)と言ったのである。イエスは、このコントラストから、弟子たちが唯一善である神の仕方を見て、「蛇」の情報を神の仕方と区別しておくことを体験させ、彼らがサタン(悪魔)化し、「人間の仕業」に至らないように教えた。

「蛇」の情報は、最終的に生き物に進化を求め、生き物はそれを満たして進化する。人において、進化の主役は善悪の知識である。この知識の進化が、唯一善である神の仕方を知ることに向かわなければ、その進化はいつも欲望を満たす「人間の仕業」となって悪に向かう。「あなたがたは、悪魔である父から出た者であって、その父の欲望を満たしたいと思っている。悪魔は初めから人殺しであって、真理に立ってはいない。彼の内には真理がないからだ。悪魔が偽りを言うときは、その本性から言っている。自分が偽り者であり、偽りの父だからである」(ヨハネ8,44)とイエスが言ったとおりである。

「神から出た者は神の言葉を聞く。あなたがたが聞かないのは、神から出た者でないからである」(ヨハネ8,47)というイエスの言葉は、人の善悪の知識に、その創造主である神に向き、唯一善である神の仕方を知り、「蛇」の情報を神の仕方と区別することを求める。聖霊降臨の後、パウロの回心を助けたアナニアの経験は、イエスの弟子として養成された者の状態を、克明に物語る。彼の善悪の知識は、他の弟子たちから伝えられ、情報化されたデータが、パウロに関わる正しいものであったにもかかわらず、それを神の仕方と区別していた。このため彼は、イエスの霊の告げる言葉に従った(使徒言行録9,10~19参照)。彼の善悪の知識は、イエスから訓練され、神の仕方を知る「神から出た者」となっていたのである。

つづく

2020年4月広島にて
Maria K

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