神学の河口27 

「神の子羊の食卓に招かれたものは幸い」



日本のカトリック教会
では、聖体拝領直前の信仰告白の言葉として、使徒ペトロの信仰告白の言葉から取られたもの1を唱えている。一方ローマ規範版のミサ典礼書では、百人隊長の信仰告白の言葉2から取られており、日本以外のほとんどの国で、これが唱えられていると聞いている。このため以前から、日本で使われている信仰告白の言葉を、ローマ規範版に合わせるべきとの意見もあるようだ。第二バチカン公会議の後、日本では、典礼文を日本語にするとき、この箇所で工夫が必要だったと聞いたことがある。司祭が「神の子羊の食卓に招かれた者は幸い」と言った後に、会衆が百人隊長の信仰告白の言葉で答えるようにしたら、日本の信者たちは遠慮して、ご聖体を拝領しないで帰ってしまうということが、懸念されたようである。                                   
*1「主よ、あなたは神の子キリスト永遠の命の糧、あなたをおいて誰のところに行きましょう」                   *2「主よ、私はあなたをわが家にお迎えできるような者ではありません。ただ、お言葉をください。そうすれば、私の子は癒やされます。」(マタイ8,8)

日本人は、「本音」と「建て前」を使い分けることで知られている。しかし、その根底には、ある種の矛盾に対する文化的な潔癖さを持つ日本人の姿があると私は思う。この姿を鑑みると、聖体拝領前に、百人隊長のように「私はあなたをわが家にお迎えできるような者ではありません。ただ、お言葉だけをください。そうすれば私の魂は癒されます」と宣言した言葉に反して、聖体を拝領しに出て行くことに、日本人の多くは矛盾を感じるのではないか。そして、公の場で言動に矛盾があることを要求されることに、日本人が嫌悪感を持つことが懸念されたのではないだろうか。それで日本人が納得して唱えられるものに変えることを願ったのではないかと私は思っている。そして、私は、少なくとも日本においては、ミサ典礼文における現在の信仰告白の言葉が、引き続き維持されることを強く望んでいる。それは、単に文化的背景や当時の宣教上の事情といったことだけではなく、以下で述べるように、神学的考察においても、「神の子羊の食卓に招かれたものは幸い」という司祭の言葉に導かれて、使徒ペトロの信仰告白の言葉で答えることが、相応しいと考えるからである。

「神の子羊の食卓に招かれたものは幸い」という言葉は、「天使は私に、『書き記せ。小羊の婚礼の祝宴に招かれている者は幸いだ』と言い、また、『これらは、神の真実の言葉である』とも言った」(ヨハネの黙示19,9)というヨハネの黙示から取られたものである。「小羊の婚礼の祝宴」は天上の祝宴であり、それに招くのは、天の父である。一方、地上のミサの典礼で言われている「神の子羊の食卓」に招くのは、イエスご自身である。「私は地から上げられるとき、すべての人を自分のもとに引き寄せよう」(ヨハネ12,32)というイエスの言葉が十字架上で実現されたことによって、「私をお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、誰も私のもとに来ることはできない。私はその人を終わりの日に復活させる」(ヨハネ6,44)という言葉は普遍性を持った。同じように、「神の子羊の食卓」に招かれた者の「幸い」によって、「小羊の婚礼の祝宴」に招かれている者の「幸い」は、普遍性を持つことになった。なぜなら、「神の子羊の食卓」で養われた者が、やがて天の「小羊の婚礼の祝宴」に移っていくからである。それゆえ、降臨した聖霊によって、地上の食卓は、天上の祝宴と連なっている。そこで、聖体拝領前の信仰告白をする者は、「神の子羊の食卓」にいながら、「小羊の婚礼の祝宴」をも見ているのである。

4つの福音書に書かれているペトロの信仰告白の言葉を順にみていく。その際、上記のヨハネの黙示のフレーズにある「これらは、神の真実の言葉である」という言葉をキーにした。「書き記せ。小羊の婚礼の祝宴に招かれている者は幸いだ」という言葉は、ここで「神の真実の言葉」であると言われている。それゆえ、天上の祝宴と連なっている地上の食卓で、「神の子羊の食卓に招かれたものは幸い」と呼びかける司祭の言葉も「神の真実の言葉」であり、これに答えるのに相応しい信仰告白も、「神の真実の言葉」でなければならない。そこで「神の真実の言葉」をキーにペトロの信仰告白を検証する。

マタイ福音書では、イエスが弟子たちに「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と問うたとき、ペトロは、「あなたはメシア、生ける神の子です」(マタイ16,16)と答えた。イエスはこの言葉について、「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ」(マタイ16,17)と言った。このイエスの言葉から、このペトロの信仰告白の言葉は、天の父の意志をダイレクトに伝える「神の真実の言葉」だったと言える。

次に、マルコ福音書とルカ福音書について考察する。両福音書は、マタイ福音書と同じ場面にペトロの信仰告白の言葉を載せているが、両福音書ともペトロはイエスがメシアであることについてのみ答えており、その答えを聞いたイエスは、弟子たちを戒め、このことを誰にも話さないように命じて終わっている(マルコ8,27~30、ルカ9,18~21参照)。これらの福音書のペトロの信仰告白の言葉に対してイエスは、マタイ福音書のように、それが「神の真実の言葉」であることを示す発言をしていない。それは、これらのペトロの答えの中に「生ける神の子です」という言葉が含まれていなかったためと考えられる。

最後にヨハネ福音書のペトロの信仰告白の言葉について考察する。ヨハネ福音書の中で、ペトロの信仰告白に至る場面は、パンを増やしたしるしの後に、イエスを捜し求めてきた群衆の言葉に、イエスが答えたところから始まっている(ヨハネ6,26参照)。彼らとの問答はやがて、「わたしは天から降って来たパンである」(ヨハネ6,41)とイエスが言った言葉を聞いて不平を言い合うユダヤ人とのやり取りに進展していった。さらにイエスが、ご自分が真の食べ物であり、真の飲み物であることを明かすと、このユダヤ人とのやり取りを聞いていた弟子たちの多くの者はつまずき、不平を言った。そこでイエスが「こういうわけで、私はあなたがたに、父が与えてくださった者でなければ、誰も私のもとに来ることはできない』と言ったのだ」(ヨハネ6,65)と言うと、彼らはイエスに背を向けて離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった。

イエスは、残った12人の弟子に「あなたがたも離れて行きたいか」(ヨハネ6,67)と問うた。この問いにペトロは、次のように答えた。「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています」(ヨハネ6,68~69)。イエスのもとに残った12人の弟子たちは、このペトロの信仰告白の言葉を共有し、イエスが語ったように、確かに“イエスのもとに来た”者たちであった。したがって、このペトロの信仰告白の言葉は、「父が与えてくださった者」の言葉である。ゆえにこの言葉は「神の真実の言葉」である。そして、イエスの「父が与えてくださった者でなければ、誰も私のもとに来ることはできない」という言葉は、ヨハネ福音書におけるペトロの信仰告白が「神の真実の言葉」であることを示している。

ヨハネ福音記者は、このペトロの信仰告白の後に、「すると、イエスは言われた。『あなたがた十二人は、私が選んだのではないか。ところが、その中の一人は悪魔だ。』イスカリオテのシモンの子ユダのことを言われたのである。このユダは、十二人の一人でありながら、イエスを裏切ろうとしていた」(ヨハネ6,70~71)と記載した。ユダの裏切りを予告しているこのフレーズは、三共観福音書の最後の夕食の席で、イエスが聖体を制定する場面と合致する。聖体制定の場面を書かなかったヨハネ福音記者は、このフレーズを付け加えることで、この場面と共観福音書の聖体制定の場面とをつなげた。こうしてヨハネは、この場面でイエスが語った言葉(ヨハネ6,26~4044~58参照)によって、聖体を制定することが父の意志であり、それを担ったイエスの切実な思いであることを、明らかに伝えた。したがって、ヨハネ福音書のペトロの信仰告白の言葉は、聖体の制定の場面、すなわち「神の子羊の食卓」を目指していた。

「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています」(ヨハネ6,68~69)というヨハネ福音書のペトロの信仰告白の特徴は、「わたしたちは」と言っているところから、イエスのもとに残った弟子たちだけのものではなく、この弟子たちの後に続くすべてのキリスト者のものでもあること、そして、「信じ、また知っています」という言葉で表現されているように、信じることと知ることが一つになった真の信仰の認識を持って宣言しているところにある。イエスが、「すなわち真理の霊が来ると、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれる」(ヨハネ16,13)と言っていたように、この信仰告白は、イエス・キリストの受難と死、復活と昇天によって聖霊が降臨した後、聖霊に導かれるキリスト者が言うのに相応しい言葉である。

「神の子羊の食卓に招かれたもの」の「幸い」、すなわちミサに参加している者の「幸い」は、キリストの聖体を前にして、「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」(マタイ16,15)、「あなたがたも離れて行きたいか」(ヨハネ6,67)というイエスの2つの問いに答える言葉を持っている者の「幸い」である。そして、なおかつその「幸い」に答える言葉は、「あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ」(マタイ16,17)、「父が与えてくださった者でなければ、誰も私のもとに来ることはできない」(ヨハネ6,65)というイエスの言葉が示すように、「神の真実の言葉」でなければならない。私は、日本語版の信仰告白の言葉が、この条件を満たしていると確信している。さらに、聖霊に導かれている私たちキリスト者のために、ヨハネ福音記者が示した「わたしたちは信じ、また知っています」という言葉が、日本語の信仰告白に付け加えられることを切に願う。

「神の子羊の食卓に招かれたものは幸い」                     「主よ、あなたは神の子キリスト、永遠の命の糧、あなたをおいて誰の所に行きましょう」。

つづく

20216月 広島にて

Maria K.

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