神学の河口28
「私は道であり 真理であり 命である」
「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」(ヨハネ14,6)と言ったイエスは、聖霊とともに生きるキリスト者のために、み言葉によって生まれるキリストの聖体を制定し、その「道」を具体的に残した。そして、聖霊は、「イエス・キリストの黙示」(黙示録1,1)であるヨハネの黙示によって、キリスト者がイエス・キリストの世界観を感覚で身に着けるように導いた。この世界観は、「あらゆる真理に導いてくれる」(ヨハネ16,13)聖霊の2つの霊性とつながり、ミサの中でキリストの聖体を拝領することで、認識になる。そこでヨハネの黙示を朗読する段階では、その言葉が感覚に入ってくる声に集中することが最重要である。
人にとって「真理」とは、御父の意志がみ言葉となった「神の計画」である。それは「命」に向かっている。この「命」は、「人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたがたの内に命はない」(ヨハネ6,53)とイエスが言ったように、み言葉によって生まれるキリストの聖体の内にある。イエスは、「私の肉を食べ、私の血を飲む者は、私の内にとどまり、私もまたその人の内にとどまる」(ヨハネ6,56)と言うことによって、この「命」が、キリストの聖体によって、キリスト者に具体的に与えられることを保証した。さらに、この言葉は、イエスが次のように説明した通り、キリストの聖体とこれを拝領する者の間に、御父と御子の絆があることをも保証している。「かの日には、私が父の内におり、あなたがたが私の内におり、私があなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる」(ヨハネ14,20)。
キリスト者は、その耳で聞いたみ言葉によって生まれるキリストの聖体を、自分の手で受け、触れ、見て、匂いを感じて食べることによって、五感全部で受け取る必要がある。復活したイエスが、弟子たちに次のように言った通り、すべてのキリスト者は、触ってよく見て、キリストの聖体を食べたことを認識にしなければならない。この認識によって、信じない者ではなく、信じる者になるためである。「私の手と足を見なさい。まさしく私だ。触ってよく見なさい。霊には肉も骨もないが、あなたがたが見ているとおり、私にはあるのだ」(ルカ24,39)、「あなたの指をここに当てて、私の手を見なさい。あなたの手を伸ばして、私の脇腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい」(ヨハネ20,27)。
この認識は、神と人が、御父と御子の絆で結ばれていることの認識である。イエスが、神の「命」を宿すキリストの聖体を制定したのは、罪の贖いの継続のためであると同時に、それをともに拝領する共同体に、御父と御子の絆を内包する“聖霊と司祭と会衆”の三位一体の絆が結ばれることの認識を与えるためでもあった。ミサで体験する“聖霊と司祭と会衆”の絆は、聖霊との間に絆を築く新しい男女の姿を表している。同じキリストの聖体を、聖霊の前で食べる司祭と会衆は、ともに自らが聖職者であるという自覚が必要である。この自覚は、前号で考察したように、天の父の意志をダイレクトに伝える「神の真実の言葉」であるペトロの信仰告白に現れる。イエスは、この岩の上に「私の教会」を建てると言ったのである。「陰府の門もこれに打ち勝つことはない」(マタイ16,18)。
神が人を創造する時に、「我々のかたちに、我々の姿に人を造ろう」(創世記1,26)と言い、「神は人を自分のかたちに創造された。神のかたちにこれを創造し、男と女に創造された」(創世記1,27)と書かれているように、神にとって、人にまずご自分と同じ「かたち」を与えること、すなわち神と人の間を、御父と御子の絆で結ぶことが重要であった。さらにそこから人を男と女に創造したのは、「我々の姿」、すなわち三位一体の神の姿を、神と男と女の間に与えるためであった。
私たちの多くは、創世記に書かれた「こういうわけで、男は父母を離れて妻と結ばれ、二人は一体となる」(創世記2,24)という言葉を、夫婦が性交によって一体になることを言っていると捉えている。しかし実際はそうではない。夫婦は性交によって「結ばれる」のであって一体になるのではない。「一体となる」のは性交によって受胎した子である。ここには、他の生き物と同様に、み言葉「あれ」が働く。その一方で、他の生き物とは異なり、人の子には、神の命である自由な意思が吹き入れられる。人は、自由な意思を与える神と、精子を与える男と、卵子を与える女が結ばれ、み言葉「あれ」によって誕生するのである。「我々のかたち、我々の姿」に人を造るために、神と男と女は、それぞれの命を与え合う。
神と男と女の命が結ばれて一体になることは、人に「我々の姿」を与える。また、この一体の内には、神が与える自由な意思と、み言葉「あれ」が存在している。この自由な意思とみ言葉「あれ」が、御父と御子の絆となって、人に「我々のかたち」を与える。神は、人の生殖において、「我々のかたち、我々の姿」に人を造るという神の意志を実現しているのである。しかし、多くの人はこの事実に気付かない。それでも、人々の無意識の底には、この経験が記憶されている。
創世記の5章には、「アダムの系図は次のとおりである。神は人を創造された日、神の姿にこれを造られ、男と女に創造された。彼らが創造された日に、神は彼らを祝福して、人と名付けられた」(創世記5,1~2)と書かれている。このフレーズの「神の姿にこれを造られ」と書かれているところに、この無意識の記憶を垣間見ることができる。しかし、すでにこの時点で、早くも神の創造の計画は神話化し、風化しかけていたことが、続く次のフレーズから分かる。「アダムは百三十歳になったとき、自分の姿やかたちに似た男の子をもうけ、その子をセトと名付けた」(創世記5,3)と書かれたこのフレーズには、「自分の姿やかたちに似た」という表現がされているからである。人々は、子が神の姿とかたちに創造された者として生まれることよりも、「自分の姿やかたちに似た」者として生まれることに、全注意を注ぐようになったのである。やがて、社会の最小単位となってその構造に組み込まれていく、血縁の共同体が形成されていった。この共同体には、アダムとエバの最初の家族がそうであったように、さまざまな「人間の仕業」が付きまとう。そこでは、成人した自分たちはもとより、次世代の姿に、神が「我々のかたちに、我々の姿に人を造ろう」と言って実現した、御父と御子の絆を内包する三位一体の神の似姿を見る者は少ない。
人は、“神と男と女”が、御父と御子の絆を内包する三位一体となることによって誕生する。イエスは、神もまた三位一体であるということを人々に悟らせるためにも、御父の名を知らせ、聖霊の降臨を告げた。そして、世の人々が、自分たちの誕生にまつわる神と人の驚くべき真実の関係を知り、子供がそうであるように、自由に神に近づくことを切に望んだ。
ヨハネの黙示の訓練は、キリスト者にイエス・キリストの世界観を身に着けさせる。イエス・キリストの世界観は、人が無意識のうちに持っている神との絆の記憶を呼び覚まし、父のもとに行く「道」であるキリストの聖体に向かわせる。そして、聖霊の2つの霊性による養成は、キリスト者をあらゆる「真理」に導き、「我々のかたちに、我々の姿に人を造ろう」と言った神の計画が、「命」であるキリストの聖体を与えるミサの中で実現することを教える。
ヨハネの黙示の言葉を朗読する声は、川が都の大通りの中央を流れるようにして感覚の記憶に入り、五感全部を清める。ヨハネの黙示がエクササイズとして新約聖書の中に置かれているという理解は、私にとって、「神学の河口」におけるこれまでの考察を裏付けるものであった。私自身も、ヨハネの黙示の訓練を続けることによって、聖霊の2つの霊性による養成とミサに与かることについて、より理解を深めることができると期待している。このために、今、「神学の河口」を後にして、「イエス・キリストの世界観」という新しい観点から、神学的探求を継続していこうと思う。
おわり。
次回から新しいブログになります。
2021年7月 広島にて
Maria K.
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