神学の河口15

キリストの聖体(1)


 

御父の意志を言葉にして成し遂げる御子は、御父にとって真の助け手である。そこで神は、人を、御子のイメージを持った神の助け手として創造した。御父と御子の分かつことのできない絆を、聖霊と人の間に与えるためである。それは、いつの日か、聖霊と人と隣人の関係に、三位一体の神の一体性を与えるためであった。真の神の似姿とは、聖霊と個々人の間に、御父と御子の絆を与えられ、人が神のかたちに似た者となること、さらに、「聖霊と人と隣人」が、三位一体の神の姿のように、完全に一体になることを言う(
「神学の河口」№4参照)。そこで、人がこの2つの状態に達していく過程が、初めから神の計画にあった。

神は、神の知識によって結ばれた御父と御子と聖霊の自由な意思が、完全に一体になることを望みつつ、これを常に成し遂げている唯一の神である。神は、御父の意志が御子によって言葉と行為に成って、それを「良し」とする聖霊の認識に至る一連の神の動きによって、天地万物と人を創造した(創世記1,3~31参照)。神は、唯一であり全能であるゆえに必要を持たない。そこで思考も判断も記憶もしない。一方人は、自分の意志が言葉と行為によって成し遂げられ、成し遂げたことを認識にするという一連の動きを、善悪の知識によって一人で行う。善悪の知識は、視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚の五感データの記憶とつながり、持った知識によって思考し、判断したことを確認し、認識にこぎつける(「神学の河口」№4参照)。

イエスは、「父が私の内におられ、私が父の内にいることを、あなたがたは知り、また悟るだろう」(ヨハネ10,38)と言った。ここで「知り」、「悟る」と言っているところから、キリスト者は、「父が私の内におられ、私が父の内にいること」を、知識として受け取ることができる。この意味は、御父と御子が互いの知識を、すなわち神の知識を、完全に共有しているということである。そして、「かの日には、私が父の内におり、あなたがたが私の内におり、私があなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる」(ヨハネ14,20)と言ったように、「かの日」、すなわち聖霊が降臨する日には、キリスト者を神の知識に迎え入れ、神の知識を共有することが、神の計画であったことを、キリスト者は分かることができる。

また、聖霊についてイエスが、「その方は私に栄光を与える。私のものを受けて、あなたがたに告げるからである。父が持っておられるものはすべて、私のものである。だから、私は、『その方が私のものを受けて、あなたがたに告げる』と言ったのである」(ヨハネ16,14~15)と言ったように、聖霊が受けてキリスト者に告げる言葉は、「私のもの」である。すなわちそれは、神の計画である。キリスト者は、聖霊が告げる神の計画を受け取り、認識にこぎつけなければならない。

神は人に、「あなたには、私をおいてほかに神々があってはならない」(出エジプト20,3)という掟を与えた。これは、「あなたには、私の計画以外の計画があってはならない」という意味である。そこで神は、人が神の計画を捉えるために、視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚の全感覚を使うように計らった。神は、エデンの園の中央に命の木を用意したのである。「人は我々の一人のように善悪を知る者となった。さあ、彼が手を伸ばし、また命の木から取って食べ、永遠に生きることがないようにしよう」(創世記3,22)と神が言ったように、命の木の実は、永遠に生きることになる木の実であった。イエスが、「このパンを食べる者は永遠に生きる」(ヨハネ6,58)と語ったと同じく、人が命の木の実を食べることは、神の計画であった。

初めの男と女は、すでに神の言葉によって、神の計画を聴覚の記憶に受け取っていた。そこで2人が、初めに命の木の実を食べることによって、視覚、触覚、味覚、嗅覚の記憶にも神の計画を受け取るはずであった。しかし、「園のどの木からでも取って食べなさい。ただ、善悪の知識の木からは、取って食べてはいけない。取って食べると必ず死ぬことになる」(創世記2,16~17)という神の言葉に対して、「私たちは園の木の実を食べることはできます。ただ、園の中央にある木の実は、取って食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないからと、神は言われたのです」(創世記3,2~3)と「蛇」に答えた女の言葉から、2人が、園の中央にある命の木の実を食べずにいたということが分かる。そして彼らは、命の木の実を食べないままに善悪の知識の木の実を食べ、エデンの園を追い出されてしまった。そこでこの2人から始まるすべての人々に命の木の実を食べさせ、神の計画を視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚の全感覚に受け取らせることが、救いの計画として、神の計画に加えられた

イエスが到来して、人々は、イエス・キリストを、“聞く、見る、触れる、匂いをかぐ”ことができた。しかし、神であっても人でもあったイエスは、自身を人に食べさせることができない。イエスは、聖体を制定することによって、人がイエスを“食べる”ことを可能にした。イエスの最後の食事の席で、キリストの聖体を使徒たちが受け取って食べたとき、彼らは、5つの感覚のすべてで神の計画を受け取った初めの人々になったのである。こうして使徒たちは、神の計画を受け取ったことを、彼らの認識にした。しかし、神の計画を知ること、すなわち神の国とイエス・キリストの名(使徒言行録8,12参照)について知るためには、イエスが「父が私の名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、私が話したことをことごとく思い起こさせてくださる」(ヨハネ14,26)と言った聖霊を待たなければならなかった。そして聖霊降臨によって、彼らはみごとに福音宣教を始めたのである(使徒言行録2,14~36参照)。

イエスは、彼の真の代理者である聖霊によって、神の計画が継続するように、キリストの聖体とともに新約の司祭職を制定した。「その日には、あなたがたが私に尋ねることは、何もない。よくよく言っておく。あなたがたが私の名によって願うなら、父は何でも与えてくださる」(ヨハネ16,23)と言ったイエスの言葉を実現し、イエスが「父が私の名によってお遣わしになる」と言った聖霊によって、パンと葡萄酒がキリストの体と血になるためである。そして、最後の食卓でイエスが聖体を制定した言葉を司祭が唱え、キリストの聖体と血の杯を上げるとき、聖霊が司祭の口から出たイエスの言葉を、生きたみ言葉にし、これを聞く司祭の記憶に介入する。同時にこの生きたみ言葉は、この現場に居合わせたキリスト者の視覚と聴覚をも、聖化するのである。聖霊がこのとき司祭の記憶に介入するのは、この司祭が、次のミサで、「キリストの御体と御血に成りますように」と天の父に願って唱える言葉を言うとき、この司祭の記憶から、生きたイエスの聖体制定の言葉が生まれ、司祭の願いが実現するためである。

次に司祭の声が、「私の記念としてこのように行いなさい」(ルカ22,19、1コリント11,23~24参照)というイエスの言葉を唱えるとき、聖霊によって、このみ言葉が、イエスの聖体制定の場面を、ミサの現場に再びもたらす。エルサレムの高間にあったイエスの「最後の食卓」が、ミサの現場である“今”に引き寄せられ(黙示録21,1~27参照)、新しいメンバーとともに、イエスの最後の食事が再現される。そこでイエスの言葉を唱えながらも、同時にその声を聞く者でもある司祭は、イエスの最後の食卓で、イエスとともにいた使徒の一人に変容する。それは、「都の城壁には十二の土台があり、そこには小羊の十二使徒の十二の名が刻みつけてあった」(黙示録21,14)と書かれているからである。「聖なる都、新しいエルサレム」(黙示録21,2)は、イエスの「最後の食卓」を意味している。それを囲む「城壁」とは、ミサを挙げる司祭たちのことであり、彼らが立つ「土台」には、十二使徒の十二の名が刻みつけてある。

そして、実際にキリストの聖体を配られ、取って食べたキリスト者において、神の計画を受け取ったことが、認識になる。この認識が永遠の命である。永遠の命が食べてなくなるキリストの聖体にあるならば、人が死すべき体を養うために日々食物を摂る必要があるように、キリスト者は、日々キリストの聖体を食べる必要がある。そこでイエスは、キリスト者に、「わたしたちの日ごとの糧を今日もお与えください」と祈るように教えたのである。

「一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、祝福して裂き、二人にお渡しになった。すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった」(ルカ24,30~31)と書かれているように、エマオへ旅する弟子たちの認識体験が、そのままに、キリストの聖体を拝領する人々に再現される。キリスト者は、復活したイエスと出会うために、日々ミサに与かる必要がある。そして、イエスが、「預言者の書に、『彼らは皆、神に教えられる』と書いてある」(ヨハネ6,45)と言ったように、今キリスト者は、神である聖霊に教えられて、互いに神の国とイエス・キリストの名について告げ知らせる隣人同士である。こうして、「私はもはや、あなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人のしていることを知らないからである。私はあなたがたを友と呼んだ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである」(ヨハネ15,15)と言ったイエスの言葉が現実のものになる。イエスは、キリスト者のために必要のすべてを完璧に準備していったのである。

マタイとマルコ福音書は、イエスが使徒たちにキリストの聖体を与えたとき、「取って食べなさい」と命令したことを伝えている。これはそのままキリスト者がキリストの聖体を受け取るときのいわば作法である。キリスト者が、司祭の手を通して配られたキリストの聖体を見て、意識を持って自分の手で受け取ることによって聖体に触れ、聖体に顔を近づけ匂いをかぎ、食べることができる。イエスが、「私の手と足を見なさい。まさしく私だ。触ってよく見なさい。霊には肉も骨もないが、あなたがたが見ているとおり、私にはあるのだ」(ルカ24,39)と言ったとおりである。

イエスは、キリストの聖体をキリスト者に残した。「私の主、私の神よ」と言ったトマスに、「私を見たから信じたのか。見ないで信じる人は、幸いである」(ヨハネ20,29)と応えた復活したイエスの眼差しは、後にミサの中でキリストの聖体を受け取る人々の上に注がれていた。キリスト者は、キリストの聖体を受け取る時、見ないで信じる人の幸いを知る。すでに福音を聞いたキリスト者の五感は、キリストの聖体を取って食べることによって、神の計画を受け取ったという認識に至っているのである。「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」(ヨハネ20,27)という言葉は、キリスト者に、この現実をそのまま受け取るよう励ましている。ミサは、聴覚、視覚、触覚、嗅覚、味覚の全感覚で神の計画を受け取ることによって完成する。この完成の上に共同体としての「私の教会」(マタイ16,18参照)が建てられている。そこでイエスは、聖体制定を、ご自分のわき腹から流れ出る血と水によって「私の教会」を産み出す前晩に成したのである。

イエスがパンを増やす場面は、聖体制定の場面につながっている。そこには、イエスと使徒だけでなされた聖体制定を、ミサに発展させる流れがすでにある。イエスが「天を仰いで」、「祝福し」、「パンを裂いて」、「弟子たちに渡し」、弟子たちは「それを群衆に配った」、群衆は、「皆、食べて満腹した」という流れがある(マタイ14,19~2015,36~37、マルコ6,41~428,6~8、ルカ9,16~17参照)。

この流れの中で、イエスが「弟子たちにお渡しになり、弟子たちはそれを群衆に配った」(マタイ14,19)ことが、それぞれの表現で三共観福音書に5度記載されている(マタイ15,36、マルコ6,41、マルコ8,6、ルカ9,16参照)。ここには重大な意味が含まれる。ここで言われている弟子たちが、イエスからすでに使徒と呼ばれていたからである。彼らが使徒と呼ばれたのは、三共観福音書によれば、いずれもイエスがパンを増やす前である(マタイ10,2~4、マルコ3,14~19、ルカ6,13参照)。イエスからパンを渡されて、それを配ったのは、使徒たちであった。

ヨハネ福音書には、イエスがパンを増やす場面で、弟子の一人フィリポを試みたことが書いてある(ヨハネ6,5~6参照)。また、弟子の一人で、シモン・ペトロの兄弟アンデレが、イエスに意見を言ったことを記載し(ヨハネ6,8~9参照)、このとき、イエスの身近にいた弟子たちが、使徒であったことを特定している。さらにヨハネ福音書は、パンを増やした場面の後、イエスがパンを食べて満腹した群衆に対峙する場面を続けた。ここでのやり取りで、多くの弟子たちがイエスから離れ去り、イエスとともに残ったのは、使徒たちだけであった。福音書のパンを増やす場面は、聖体制定を意識して書かれており、これを継承し、ミサにまで発展させ、キリスト者にキリストの聖体を配り食べさせる司祭たちのために書かれていたのである。


キリスト者の司祭は、額に汗してこの命の糧を得て(創世記3,19参照)、キリスト者一人一人にこれを配り、食べさせるという使命を持つ、聖霊の協力者である。イエスが教えた唯一の祈り、主の祈りには、このイエスの思いが塗りこめられている。「わたしたちの日ごとの糧を今日もお与えください」、「わたしたちの日ごとの糧を今日もお与えください」と日々祈るキリスト者に、司祭は、折が良くても悪くても、イエスの渡したキリストの聖体を配らなければならない。キリスト者は、聖体制定をしたイエスの思いを知って、日々ミサに向けて人生の舵を取ることができるように、養成されなければならない。キリスト者が、キリストの聖体を受け取る姿は、この世に神が私たちと共におられることの決定的なしるしとなる。神は、キリスト者が、キリストの聖体を求めてご自分のもとに来ることを、熱烈に待っているのである。

イエスは、後に来られるご自分の真の代理者である聖霊のために、弟子の中から使徒を養成し、聖体制定をし、まず彼らに、イエスご自身の手からキリストの聖体を食べさせた。それは彼らに、聖霊によってキリストの聖体を生み出す使徒の役割を、継承させていくためである(使徒言行録1,15~26参照)。そして彼らが、キリストの聖体を、キリスト者に配る日のためであった。そこでイエスは、前もって「命のパン」について、使徒たちの前で民衆に懸命に語りかけた。ヨハネ福音記者はこのイエスの言葉を書き残した。それは、すべてのキリスト者が、イエスの思いを知り、キリストの聖体に懸けたイエスの思いを汲み取るためである。司祭はキリスト者の内から出る。キリストを信じるすべての者は、すべてのキリスト者が、日々キリストの聖体を受け取って食べることができるために、その方法を、全力を尽くして模索しなければならない。「命のパン」について語るイエスのみ言葉が、「お前は彼のかかとを砕く」(創世記3,15)という創世記の神の予告を、すでに追い越しているからである。

「私は命のパンである。あなたがたの先祖は荒れ野でマナを食べたが、死んでしまった。しかし、これは、天から降って来たパンであり、これを食べる者は死なない。私は、天から降って来た生けるパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。私が与えるパンは、世を生かすために与える私の肉である」(ヨハネ6,48~51)、「よくよく言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたがたの内に命はない。私の肉を食べ、私の血を飲む者は、永遠の命を得、私はその人を終わりの日に復活させる。私の肉はまことの食べ物、私の血はまことの飲み物だからである。私の肉を食べ、私の血を飲む者は、私の内にとどまり、私もまたその人の内にとどまる。生ける父が私をお遣わしになり、私が父によって生きるように、私を食べる者も私によって生きる。これは天から降って来たパンである。先祖たちが食べたが死んでしまったようなものではない。このパンを食べる者は永遠に生きる(ヨハネ6,53~58)。

つづく
20206月 広島にて
Maria K

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