神学の河口20

福音記者ヨハネの挑戦(3)



「この預言の言葉を朗読する者と、これを聞いて中に記されたことを守る者たちは、幸いだ。時が迫っているからである」(黙示録1,3)。

ヨハネの黙示は、キリスト者に「神の計画」を身につけさせる訓練の書である。それは、声に出して朗読されて初めて訓練の書として生きてくる。人々が集まってするときも、一人でするときも、ヨハネの黙示を朗読すること自体が、人を訓練する。声に出して朗読し、それを聞いて「神の計画」を身に付けるのである。これが「これを聞いて中に記されたことを守る者たち」の意である。ヨハネの黙示には、朗読し聞く訓練をする者の「幸い」が貫いてある。この「幸い」は、言葉で書かれた黙示を、感覚でも受け取ることである。言葉を感覚でも受け取るという訓練によって、これまで「神学の河口」で考察してきたように、「神の計画」が置かれている五感データの記憶に、「神の計画」が繰り返し入り、これが知識であることの印象が明確になる。それは、五感データの記憶とつながっている善悪の知識が、「神の計画」と、情報化されすでにこの段階で知識化が起こっている「蛇」の情報(偶発的情報)とを、区別しやすくなるということである。さらに、繰り返すことで、五感データの記憶に強く刻まれた「神の計画」を、善悪の知識はイメージしやすくなる。

「エルサレムには天下のあらゆる国出身の信仰のあつい人々が住んでいたが、この物音に大勢の人が集まって来た。そして、誰もが、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられた」(使徒言行録2,5~6)と書かれているように、聖霊が降臨したことで、あらゆる人々が「神の計画」に触れる機会に恵まれ、「神の計画」に知らずに向かうようになる。イエスが「洗礼者ヨハネの時から今に至るまで、天の国は激しく攻められており、激しく攻める者がこれを奪い取っている」(マタイ11,12)と言ったように、それは、洗礼者ヨハネの時から始まっていたが、聖霊が降臨して決定的になった。「私は地から上げられるとき、すべての人を自分のもとに引き寄せよう」(ヨハネ12,32)と言ったイエスの言葉が実現したからである。キリスト者は「神の計画」を身につけて、善に引き寄せられた世の中の人々の歩みを助けるように働かねばならない。「時が迫っている」とはこのことである。

この黙示が、キリスト者に与えられたのは、キリスト者が、「神の計画」の全貌をイメージしてつかみ、迫りくる時の只中に入って働き、その時を加速する者になるように期待されているからである。キリスト者は、イエス・キリストによって、完全に告知された「神の計画」を身につける必要がある。

ヨハネの黙示は、初めと終わりを除くと、大きく3部に分かれている。第1部(黙示録2,1~3,22参照)は、七つの教会へのメッセージから始まる。これらのメッセージは、現代にも共通する問題を持っている。初めのメッセージの中に、次のような指摘が見られる。「あなたに言うべきことがある。あなたは初めの愛を離れてしまった。それゆえ、あなたがどこから落ちたかを思い出し、悔い改めて、初めの行いをしなさい。悔い改めないなら、私はあなたのところへ行って、あなたの燭台をその場所から取りのけよう」(黙示録2,4~5)。

「燭台」は「教会」のことであるから(黙示録1,20参照)、「あなたの燭台をその場所から取りのけよう」とは、その教会から「私の教会」(マタイ16,18参照)の召命を取りのけると言っているのである。これは、この「神学の河口」で考察してきた、「私の教会」が未だ現れていないという結論につながる内容である。この内容は、キリスト者の視点を「どこから落ちたか」に向けさせる。この観点からこれらのメッセージの内容を考察する。

「初めの愛を離れてしまった」という言葉の意味をはっきりさせるために、各福音書で初めに「愛」という言葉がでてくる箇所を調べた。三共観福音書はともに、「これは私の愛する子、私の心に適う者」(マタイ3,17、マルコ1,11、ルカ3,22)と語りかける御父の声であった。また、ヨハネ福音書は、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。御子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ3,16)と書かれていた。すべての福音書の「初めの愛」は、イエスについて書かれているのである。これらの結果から見ると「初めの愛を離れてしまった」とは、イエスから離れてしまったということになる。これは重大な問題である。

この後に続く6つのメッセージに書かれているさまざまな問題の原因は、「自分が分かっていない」ということに要約される。第2のメッセージに「私は、あなたの苦難と貧しさを知っている。しかし、本当はあなたは豊かなのだ」(黙示録2,9)、第7のメッセージに「自分が惨めな者、哀れな者、貧しい者、目の見えない者、裸の者であることが分かっていない」(黙示録3,17)と書かれている通りである。「自分が分かっていない」者は、第5のメッセージの「あなたが生きているとは名ばかりで、実は死んでいる」(黙示録3,1)、第6のメッセージの「あなたは力の弱い者である」(黙示録3,8)、第7のメッセージの「あなたは、冷たくもなく熱くもない」(黙示録3,15)と指摘される状態に陥る。「自分が分かっていない」者がこの状態に陥れば、誰でも、第3のメッセージの「バラムの教えを奉ずる者」(黙示録2,14)が来れば、その教えになびき、第4のメッセージの「あのイゼベルと言う女」(黙示録2,20)が来れば、なすがままにさせるのである。とどのつまり、惑わされ、淫らなことを行い、偶像に献げた肉を食べることになる。

ヨハネが霊に満たされて、「口からは鋭い両刃の剣が突き出て、顔は強く照り輝く太陽のようであった」(黙示録1,16)と書いた描写は、パウロの次の言葉にもあるみ言葉の特徴を示している。「神の言葉は生きていて、力があり、いかなる両刃の剣より鋭く、魂と霊、関節と骨髄とを切り離すまでに刺し通して、心の思いや考えを見分けることができます」(ヘブライ4,12)。ヨハネの黙示を朗読する訓練の中で、キリスト者は、この鋭い両刃の剣に刺し通されて、神の見る現実の前に立つ自分自身の心の思いや考えを、見分けることができるようになる。訓練によって、自分が、「神の計画」を身に付け、それをイメージすることのできるキリスト者であるということを、分かっている者になっていくのである。さらにこの人々は、神が彼らに持つことを期待している、「私の教会」の聖家族の召命と役割に、気づくようになる(「神学の河口」№8参照)。

イエスの「私の教会」とは、聖霊降臨の前に、イエスが自ら訓練した人々が、イエスの言葉を守り、高間で聖霊を待って集まって祈り、次の使徒を選び出した、あの共同体のことである。「神学の河口」№8で考察したように、この共同体の特徴から、イエスの「私の教会」に聖家族の召命と役割があることを知った。「彼らは都に入ると、泊まっていた家の上の階に上がった。それは、ペトロ、ヨハネ、ヤコブ、アンデレ、フィリポ、トマス、バルトロマイ、マタイ、アルファイの子ヤコブ、熱心党のシモン、ヤコブの子のユダであった。彼らは皆、女たちやイエスの母マリア、またイエスの兄弟たちと心を合わせて、ひたすら祈りをしていた」(使徒言行録1,13~14)。

2部(黙示録4,1~11,19参照)は、第3部(黙示録12,1~22,5)に向けて、朗読する人を準備させる。使徒言行録に「突然、激しい風が吹いて来るような音が天から起こり、彼らが座っていた家中に響いた」(使徒言行録2,2)と表現されたように、降臨した聖霊がもたらした空間は、まるで神殿のようにイエスの「私の教会」を包んだ。これは、復活したイエスが天に上げられる前に、「私は、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力を身に着けるまでは、都にとどまっていなさい」(ルカ24,49)と言ったことの実現である。「高い所からの力を身に着ける」とは、聖霊のもたらしたこの空間に常に包まれている感覚を、身につけていることである。ヨハネが、この空間の中を見て書いたこの黙示は、これを朗読する訓練によって、それを可能にする。この感覚は、ヨハネが「私は、たちまち霊に満たされた」(黙示録4,2)と言ったように、キリスト者を養成しようと待ち構えているイエスの霊とつながるようにさせる。そこで、この訓練を有効に行うために、黙示録に書かれている重要なシンボルについて、知っておく必要がある。

「その後、私が見ていると、開かれた扉が天にあった。そして、先にラッパのような声で私に語りかけた、あの最初の声が言った。『ここへ上って来なさい。そうすれば、この後必ず起こることをあなたに示そう。』」(黙示録4,1。「開かれた扉が天にあった」という言葉は、扉の向こうに神の国があるとしても、このときヨハネが見た「天」は、神の国とは別なものとしてイメージされなければならない。「ここへ上って来なさい」の「ここ」は、まだ聖霊が降臨した地上であり、五旬祭の日が来て、皆が同じ場所に集まっている所に初めてもたらされたこの「天」は(使徒言行録2,1参照)、聖霊によって地上に出現した新しい「天」である。

「すると、天に玉座があり、そこに座っている方がおられた」(黙示録4,2)。この方が誰かを知るために、「玉座の前には、水晶に似たガラスの海のようなものがあった」(黙示録4,6)という描写を、22章の「天使はまた、神と小羊の玉座から流れ出て、水晶のように光り輝く命の水の川を私に見せた」(黙示録22,1)という描写へつなげる。すると「天に玉座があり」の玉座は、神と小羊の玉座」であり、そこに座っているのは「神と小羊」だと分かる。そこで、「神と小羊」を「神の現存とこれから屠られる小羊」と解釈すれば、玉座に座っている方は、「キリストの聖体」である。またここから「玉座」は祭壇である。

次に「玉座の前には、七つの松明が燃えていた。これは神の七つの霊である」(黙示録4,5)という描写は、完全数の7を使って、燃えていた松明と神の霊を表現しているところから、これらは聖霊を指している。「この玉座の中央とその周りに四つの生き物がいたが、前にも後ろにも一面に目があった」(黙示録4,6)と書かれた生き物は、4つの福音書である。「前にも後ろにも一面に目があった」とは、全世界の人々の目がそれを読むようになることを暗示している。

「小羊が屠られたような姿で立っているのを見た。小羊には七つの角と七つの目があった。この七つの目は、全地に遣わされている神の七つの霊である」(黙示録5,6)。「屠られた」小羊は、復活したイエスを表し、七つの目が七つの神の霊、すなわち聖霊を表しているところから、これは、イエスが地上に残したみ言葉と地上に降臨した聖霊の意志が結ばれた、イエスの霊である。聖霊降臨によってイエスの霊は全地に遣わされている。「小羊は進み出て、玉座におられる方の右の手から巻物を受け取った」(黙示録5,7)とは、イエスの霊が、キリストの聖体から、巻物を受け取ったということである。イエス・キリストの勝利によって、イエスの霊が七つの封印を解き、この巻物を開くことができるのである(黙示録5,5参照)。この勝利は、キリストの聖体と「私の教会」によって継続される。

そこで、この巻物には、表と裏に文字が記されていたので(黙示録5,1参照)、それは2つの事、キリストの聖体と「私の教会」について記されていたと考えられる。この封印を解き、開くことができるのはイエスの霊だけである。そしてイエスの霊は、霊であるので、この巻物を開いたとき、その内容を伝えるために手段が必要であった。そこで、初めに4つの生き物が声を上げたのである。それは4つの福音書である。それぞれがどの福音書を指しているのかを知るために、まずそれぞれの福音書の復活したイエスの最後の命令を当てはめてみることを思いついた。それは次のようである。

初めの声によって、「白い馬が現れ、それに乗っている者は、弓を持っていた。彼は冠を与えられ、勝利の上になお勝利を得ようとして出て行った」(黙示録6,2)。この記述には、マタイ福音書の「私は天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民を弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼(バプテスマ)を授け、あなたがたに命じたことをすべて守るように教えなさい。私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイ28,18~20)というイエスの最後の言葉が当てはまる。「弓」は「天と地の一切の権能を授かっている。私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」という保証に、「冠」は「あなたがたは行って、すべての民を弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼(バプテスマ)を授け、あなたがたに命じたことをすべて守るように教えなさい」という命令に、「勝利の上になお勝利を得ようとして出て行った」は「あなたがたは行って、すべての民を弟子にしなさい」という命令につながる。したがって、初めの生き物は、マタイ福音書である。

2の声によって、「火のように赤い馬が現れた。それに乗っている者には、人々が互いに殺し合うようになるために、地上から平和を奪い取る力が与えられた。また、この者には大きな剣が与えられた」(黙示録6,4)。この記述は、マルコ福音書の「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。信じて洗礼(バプテスマ)を受ける者は救われるが、信じない者は罪に定められる。信じる者には次のようなしるしが伴う。彼らは私の名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を語る。手で蛇をつかみ、また、毒を飲んでも、決して害を受けず、病人に手を置けば治る」(マルコ16,15~18)というイエスの最後の言葉が当てはまる。「地上から平和を奪い取る力が与えられた」とは、「信じて洗礼(バプテスマ)を受ける者は救われるが、信じない者は罪に定められる」という言葉に対応し、「大きな剣」とは、「信じる者には次のようなしるしが伴う。彼らは私の名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を語る。手で蛇をつかみ、また、毒を飲んでも、決して害を受けず、病人に手を置けば治る」権能の事である。第2の生き物は、マルコ福音書である。

3の声によって、「黒い馬が現れた。それに乗っている者は、手に秤を持っていた。私は、四つの生き物の間から出る声のようなものを聞いた。『小麦一コイニクスを一デナリオン、大麦三コイニクスを一デナリオンとする。オリーブ油とぶどう酒を損なってはならない』」(黙示録6,5~6)。この記述は、ルカ福音書の「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、その名によって罪の赦しを得させる悔い改めが、エルサレムから始まって、すべての民族に宣べ伝えられる。』あなたがたは、これらのことの証人である。私は、父が約束されたものをあなたがたに送る高い所からの力を身に着けるまでは、都にとどまっていなさい」(ルカ24,46~49)というイエスの最後の言葉が当てはまる。神が、その独り子イエスを、十字架刑の苦しみと死に渡し、この大きな代償を支払って買い取ったものは、十字架刑によって公示され、「その名によって罪の赦しを得させる悔い改めが、エルサレムから始まって、すべての民族に宣べ伝えられる」事であった。これは秤にかけてとうてい釣り合う値ではない。そして、「父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力を身に着けるまでは、都にとどまっていなさい」と言ったのは、イエスの弟子たちが「これらのことの証人」であり、一人も「損なってはならない」からであった。第3の生き物は、ルカ福音書である。

4の声によって、「青白い馬が現れた。それに乗っている者の名は『死』と言い、これに陰府が従っていた。彼らには、剣と飢饉と死と地の獣とによって、地上の四分の一で人々を殺す権威が与えられた」(黙示録6,8)。この記述は、ヨハネ福音書の「私の来るときまで彼が生きていることを、私が望んだとしても、あなたに何の関係があるか。あなたは、私に従いなさい」(ヨハネ21,22)というイエスの最後の言葉が当てはまる。「それに乗っている者の名は『死』と言い」と「私の来るときまで彼が生きていること」が、また、「これに陰府が従っていた」と「あなたは、私に従いなさい」が対応しているのである。そして、「それに乗っている者の名は『死』と言い、これに陰府が従っていた。彼らには、剣と飢饉と死と地の獣とによって、地上の四分の一で人々を殺す権威が与えられた」という言葉全体は、「ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すことになるかを示そうとして」(ヨハネ21,19)、イエスがペトロに言った次の予告に対応している。「よくよく言っておく。あなたは、若い時は、自分で帯を締めて、行きたい所へ行っていた。しかし、年を取ると、両手を広げ、他の人に帯を締められ、行きたくない所へ連れて行かれる」(ヨハネ21,18)。そして、「地上の四分の一で」とは、ペトロが地上の生涯の四分の三を生きたところで殺されるという意である。第4の生き物は、ヨハネ福音書である。

次に、第5、第6、第7の封印を解いたときは、声についての記載がない。そこで小羊が封印を解いたとき起こった事を考察し、その内容に相応しいものを新約聖書の中から探した。

「小羊が第五の封印を解いたとき、私は、神の言葉のゆえに、また、自分たちが立てた証しのゆえに殺された人々の魂を、祭壇の下に見た」(黙示録6,9)。これには、投獄や殉教などの迫害について書かれている使徒言行録が当てはまる。第六の封印を解いたときに起こった災難は、「神と小羊の大いなる怒りの日が来たのだ。誰がそれに耐えられようか」(黙示録6,17)の言葉で終わる。「怒りの日」と言う言葉は、使徒パウロの書簡(ローマの信徒への手紙)の中にみられる。「あなたは、かたくなで心を改めようとせず、怒りの日、すなわち、神の正しい裁きの現れる日に下される怒りを、自分のために蓄えています」(ローマ2,5)というパウロの言葉である。この言葉に、第6の封印を解いたときの最後の言葉が、対応している。第6の封印に当てはまるのは、パウロの書簡である。この二つは、初めから天に置かれていた4つの福音書とともに、イエスの霊が封印を解くために使ったのである。そこでこれらも天に置かれることになる。その経緯は次の通りである。

「それから、私に杖のような物差しが与えられた。そして、こう告げられた。『立って神の神殿と祭壇とを測り、また礼拝している者たちを数えなさい。しかし、神殿の外の庭はそのままにしておきなさい。測ってはならない。そこは異邦人に与えられたからである』」(黙示録11,1~2)。「杖」は牧者の杖、そして、使徒たちを思い起こさせる。「神殿と祭壇とを測り」と「礼拝している者たちを数えなさい」とは、神殿と祭壇、礼拝している者たちを描いている聖書の場面を探すことである。それは、使徒について書かれ、これらの場面がある使徒言行録である。また、「しかし、神殿の外の庭はそのままにしておきなさい。測ってはならない。そこは異邦人に与えられたからである」とは、異邦人の使徒であるパウロの書簡を指している。この二つが、ここに書かれている「二人の証人」(黙示録11,3参照)である。そして、「天から大きな声がして、『ここに上って来なさい』と言うのを、二人は聞いた。そして、雲に包まれて天に上った」(黙示録11,12)とあるように、この二つは、天に上ったのである。

「小羊が第七の封印を解いたとき、天は半時間ほど静寂に包まれた」(黙示録8,1)とある。また、「一羽の鷲が空高く飛びながら、大声でこう言うのを私は聞いた」(黙示録8,13)と書かれている。「鷲」はヨハネのシンボルである。第七の封印、すなわち最後の封印に関わるのは、ヨハネが今まさに書いているこのヨハネの黙示である。

この静寂の後、七人の天使にラッパが与えられる(黙示録8,2参照)。天使がラッパを吹くとさまざまな災いが起こる。ラッパの響きは真理の音である。「人間の仕業」の只中で、人に治められ、呻きながら生きる被造物たちは、天使の吹くラッパの音に、「神の計画」に目覚める(黙示録8,7~19参照)。そして、しゃにむに神の計画に向かおうとする。この本能ともいえる行動の変化は、「地に住む者たち」(黙示録8,13)に大きな災いとして降りかかってくる。人が「人間の仕業」によって治めた被造界が、天地創造の「神の計画」に向けて体制を取り直そうとするのである。そこで、大きな災いを目の当たりにして、人々は、なぜ、神がこれらの災いを送ったのかと考えて問うが、答えは得られない。

「また私は、もう一人の力強い天使が雲を身にまとい、天から降って来るのを見た。頭には虹を戴き、顔は太陽のようで、足は火の柱のようであり、手には開かれた小さな巻物を持っていた。そして、右足で海を、左足で地を踏まえて、獅子がほえるような大声で叫んだ。天使が叫ぶと、七つの雷がそれぞれの声で語った。七つの雷が語ったとき、私はそれを書き留めようとした。すると、天から声がして、『七つの雷が語ったことは秘めておけ。それを書き留めてはならない』と言うのを聞いた」(黙示録10,1~4)。

天使の叫びに応えて語った「七つの雷」は、これまで、4つの福音書、使徒言行録、パウロの書簡、ヨハネの黙示録が、イエスの霊が使う手段として登場していることを考えると、ヤコブの手紙、ペトロの二つの手紙、ヨハネの三つの手紙、ユダの手紙の七つの書簡を指しているとみられる。ヨハネの黙示録は、新約のその他の聖書すべてと結びついているのである。冒頭で書いた、言葉で書かれた黙示を感覚でも受け取ることの「幸い」の保証がここにある。そこで、ヨハネの黙示を貫く「幸い」は、この訓練を続けるキリスト者に同伴する。イエスは、命をかけてすべてを成し遂げ、聖霊は、今、わたしたちとともにいる。「第七の天使がラッパを吹いた」(黙示録11,15)、そして、神の秘義が成就した(黙示録10,7参照)。

「初めからこれらのことを言わなかったのは、私があなたがたと一緒にいたからである。しかし今私は、私をお遣わしになった方のもとに行こうとしている。それなのに、あなたがたのうち誰も、『どこへ行くのか』と尋ねる者はいない。かえって、私がこれらのことを話したので、あなたがたの心は苦しみで満たされている。しかし、実を言うと、私が去って行くのは、あなたがたのためになる。私が去って行かなければ、弁護者はあなたがたのところに来ないからである。私が行けば、弁護者をあなたがたのところに送る。その方が来れば、罪について、義について、また裁きについて、世の誤りを明らかにする。

罪についてとは、彼らが私を信じないこと、

義についてとは、私が父のもとに行き、あなたがたがもはや私を見なくなること、

また裁きについてとは、この世の支配者が裁かれたことである。

言っておきたいことはまだたくさんあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。しかし、その方、すなわち真理の霊が来ると、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれる。その方は、勝手に語るのではなく、聞いたことを語り、これから起こることをあなたがたに告げるからである」(ヨハネ16,4~13)。

キリスト者が、神の見る現実をしっかりと受け取ることによって、その祈りは、ただひたすらに神への感謝へ向かう。そして、この神への感謝の祈りから出発するキリスト者は、イエスがキリスト者のために準備したすべてを受け取り、実生活の中でそれを十全に使っていく。このために、ヨハネの黙示は、キリスト者に「神の計画」を身につける訓練の機会を与える。次回は、第三部から始めたい。

つづく

2020年11月 広島にて
Maria K

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