神学の河口23 

聖霊の霊性と無情報の暗闇

 (2021年3月修正版)


ご聖体の前で聖霊の霊性によって養成されていることの証しは、その間に起こる無情報の2つの暗闇、神の無情報の暗闇と自己の無情報の暗闇の体験によって確認することができる。それは、人々が普段何かに熱中し、集中している場合とよく似ているが、それと同じではない。人は自分の計画に集中する時、我を忘れていることがある。自己に無情報になっているのである。このとき人の善悪の知識と感覚(五感データ)の記憶は、自分の計画を成し遂げるために連動している。善悪の知識は、感覚(五感データ)の記憶とつながりつつ、善悪の知識の記憶にすでに置かれた知識や認識を使い、推理や判断を繰り返している。善悪の知識は、これらをもとに、自由な意思とつながって、自由な意思に作用し、意志決定に持ち込み、活動にしている。そこで、感覚(五感データ)が捉え続けている情報が無視されがちになるために、自己に無情報になっている状態が起こるのである。一方、聖霊の霊性に与かるとき起こる神と自己の無情報の暗闇は、これとは全く異なる。以下くわしく説明していく。

ご聖体には、「私が命のパンである。私のもとに来る者は決して飢えることがなく、私を信じる者は決して渇くことがない」(ヨハネ6,35)、「私は命のパンである」(ヨハネ6,48)、「私は、天から降って来た生けるパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。私が与えるパンは、世を生かすために与える私の肉である」(ヨハネ6,51)と繰り返し教えたイエスの言葉が、生きている。さらに、聖霊が降臨し、聖体祭儀の中で聖霊の意志が降るご聖体は、人の善悪の知識を捉え養成し、「世を生かす」イエスの宣教と救いの業を、キリスト者と協働して継続するために、人と同一の構造を持つようになったと考えられる。

以下に、ご聖体と人の構造についての考え方を述べるが、ここでいう神の言葉「ある」と「あれ」は、被造物である人間にとって、御父の意志と御子の意志がみ言葉と行為を成し遂げた状態を保ち、聖霊による認識が来るのを待つ状態を示している。この状態は、人が活動していない時も生きていることと似ている。「神学の河口」で創世記の記述から深く考察したように、「地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた」(創世記1,2)というフレーズは、「初めに神は天と地を創造された」(創世記1,1)後の状態を表している。「地は混沌であって」とは、御父の熱情のような憐みの意思が動かないでいる状態を暗示し、「闇が深淵の面にあり」とは、御父がこの状態にあるとき、み言葉である御子が沈黙している様子を示唆している。このとき聖霊は、御父の意志が御子によって成し遂げられたことを認識にするために、「水の面を動いていた」のである。このことは、対照的に、これに続く、「神は言われた。『光あれ。』こうして、光があった。神は光を見て、良しとされた」(創世記1,3~4)という、神の活動を表現している言葉から推し量ることができる。「神は言われた」で示された御父の意志は、「『光あれ。』こうして、光があった」で示された御子の言葉と行為によって成し遂げられ、「神は光を見て、良しとされた」で示された聖霊の与える認識によって完結する。

キリストの聖体の構造

1.  神の言葉「ある」・・「取って食べなさい。これは私の体である」(マタイ26,26)というみ言葉の「ある」によって、キリストの聖体は、パンと葡萄酒の形態のままでいるキリストの体を保持している。燃え尽きない芝の中から、モーセに「私はいる、という者である」(出エジプト3,14)と答えた神の、そしてイエスが、「よくよく言っておく。アブラハムが生まれる前から、『私はある。』」(ヨハネ8,58)と言った神の現存を保ち、「私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイ28,20)という約束を実現し続けるみ言葉である。一方で、「ある」という言葉によってご聖体は、十字架上で御父の引き寄せる力と一体となって、「私は地から上げられるとき、すべての人を自分のもとに引き寄せよう」(ヨハネ12,32)と言ったみ言葉の実現を継続し、人々の善悪の知識と自由な意思を引き寄せ、養成することができる。同時に、「誰も私から命を取り去ることはできない。私は自分でそれを捨てる。私は命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。これは、私が父から受けた戒めである」(ヨハネ10,18)と言ったイエスの言葉のとおり、キリストの聖体も、キリスト者に食べられることによって、命を捨てることができる。それはご聖体が、「よくよく言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」(ヨハネ12,24)と言って黄泉に降ったキリストの業を継続し、死んでもこの世をさ迷う人の自由な意思や、悪霊となった人の自由な意思を救うためである。

2.  神(聖霊)の意志・・イエスが、「しかし、実を言うと、私が去って行くのは、あなたがたのためになる。私が去って行かなければ、弁護者はあなたがたのところに来ないからである。私が行けば、弁護者をあなたがたのところに送る」(ヨハネ16,7)と言った言葉を実現し、御父のもとに行った後、父のもとから遣わした弁護者、聖霊の意志である(ヨハネ15,26参照)。

3.「神の計画」・・「私はもはや、あなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人のしていることを知らないからである。私はあなたがたを友と呼んだ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである」(ヨハネ15,15)と言ったように、イエスが知らせ、完成した啓示全体である。

人の構造

1.神の言葉「あれ」・・天地創造の時、神が最初に言った言葉は、「光あれ」であった(創世記1,3参照)。それは、「無から有を呼び出される神」(ローマ4,17)が、被造物が存在することを望んで命じた言葉である。神が命じた言葉「あれ」は、人と「あらゆる生き物」の存在を保持している。

2.自由な意思・・「神である主は、土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き込まれた。人はこうして生きる者となった。神である主は、東の方のエデンに園を設け、形づくった人をそこに置かれた」(創世記2,7~8)と書かれたように、自由な意思は、神が吹き込んだ神の命である。この神の命によって、人は、神に形づくられた人として生きる者となる。

3.善悪の知識・・善悪の知識の木の実を食べたために、人は善悪の知識を持った。この善悪の知識は、感覚(五感データ)の記憶とつながって、その情報を取り込み、知識として記憶する。「人は我々の一人のように善悪を知る者となった」(創世記3,22)と神が言ったように、神が、神の全能性に似せて創造した善悪の知識は、記憶した知識を推理判断し、確定させて認識にし、人を、「善悪を知る者」にする。この認識は、善悪の知識とつながっている自由な意思に作用し、具体的な活動にこぎつけることができる。なお、感覚(五感データ)の記憶は、次の神の言葉から分かるように、善悪の知識の木の実を食べる前の、まだ知識を持っていなかった「人」にも、また、他の生き物にも、生きる必要から神が与えていたものである。「神は言われた。『私は全地の面にある、種をつけるあらゆる草と、種をつけて実がなるあらゆる木を、あなたがたに与えた。それはあなたがたの食物となる。また、地のあらゆる獣、空のあらゆる鳥、地を這う命あるあらゆるものに、すべての青草を食物として与えた。』そのようになった」(創世記1,29~30)、「園のどの木からでも取って食べなさい。ただ、善悪の知識の木からは、取って食べてはいけない。取って食べると必ず死ぬことになる」(創世記2,16~17)。

神の無情報の暗闇は、被養成者が聖霊の霊性に与ろうとしてご聖体の前に座るとき、人を構成する善悪の知識が、ご聖体を構成する「神の計画」と結びつくために起こる状態である。使徒言行録にある聖霊降臨の場面で、「『ユダヤ人や改宗者、クレタ人やアラビア人もいるのに、彼らが私たちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。』人々は皆驚き、戸惑い、『一体、これはどういうことなのか』と互いに言った」(使徒言行録2,11~12)と書かれたように、被養成者は、善悪の知識がご聖体の前で、偉大な「神の計画」とつながったために、圧倒され、これまで持っていたはずの「神の計画」についての知識も、見えなくなってしまう。この中で、被養成者の善悪の知識は、イエスがそのすべてを教えた「神の計画」の軛を負い、それを神から直接学びなおすのである。この学びの成果は、聖霊が時宜に応じてこの人から引き出すとき、知ることができる。

しかし、被養成者は、善悪の知識がご聖体の「神の計画」につながって、神の無情報の暗闇を体験していても、神の情報以外の情報については、自由に関わることができる。そこで、善悪の知識が自由な意思とつながるために、さまざまな雑念に悩まされることとなる。ここで、前回考察したように、ご聖体の引き寄せる力を意識して、呼吸を睡眠時のように安らかに規則正しく整え、目を開けてさらにご聖体(ご聖櫃)に集中すると、自由な意思がリラックスして気が下がり、被養成者は、自分自身が静かに低められていくのが分かるようになる。こうして被養成者の方からも、「私は柔和で心のへりくだった者だから」(マタイ11,29)という、ご聖体のイエスの人性に、自分から合わせることができるようになる。

被養成者の姿勢がこのように変わり、ご聖体にもっと集中するようになると、善悪の知識は、「神の計画」に、より強く結ばれる。この結果、自由な意思は、善悪の知識を一時的に失ったかのような経験をする。常日頃からともにいる善悪の知識をイエスの軛に取られ、失ったかのようになった自由な意思は、他の知識を求めて、人の存在を保つ「あれ」という神の言葉に向かう可能性がある。神の言葉は、人にとって知識だからである。この可能性が現実になるために、善悪の知識がイエスの軛を負って、いわば隠れてしまったようになったことを見た御父が、ここで報いてくださる。「あなたが祈るときは、奥の部屋に入って戸を閉め、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる」(マタイ6,6)とイエスが言った「報い」は、この場面で、御父が人の自由な意思を、神の言葉「あれ」に引き寄せてくださることによって起こる。

人と「あらゆる生き物」の存在を保持し、自由な意思をも支えている神の言葉「あれ」に、自由な意思が引き寄せられると、「神の計画」と結ばれている善悪の知識と自由な意思とのつながりが切れて、自己の無情報の暗闇が現れる。このとき被養成者は、神と自己の2つの無情報の暗闇を体験しているのである。一方この人の感覚(五感データ)は、無情報の暗闇の中にあっても、「ご聖体の前で座っているという活動」を逐一記憶している。神と自己の2つの無情報の暗闇の状態が、感覚(五感データ)には、何の影響も与えないからである。自由な意思が戻り、善悪の知識が軛を解いて、感覚(五感データ)の記憶と結ばれたとき、それによって被養成者は、ご聖体の前で座って聖霊の霊性に養成されていたことを確信する。

このとき被養成者は、「そうすれば、あなたがたの魂に安らぎが得られる」(マタイ11,29)というイエスの言葉を悟り、真の平和を見出す。この平和は、イエスが「私は、平和をあなたがたに残し、私の平和を与える。私はこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな」(ヨハネ14,27)と言ったイエスの平和である。御父がこのようにして報いてくださったのである。

こうして聖霊の霊性によく養成されたキリスト者は、やがて実生活の中の様々な場面で、神と自己の無情報の暗闇が現れることに気づくことがある。イエスの霊がこの人と協働することを望んでいるのである。キリスト者が聖霊の霊性に与かるためにご聖体の前に留まっているときは、自発的に望んでご聖体の前にいるのであるから、ご聖体は、その人の活動をともにする同意をすでに得ているのである。しかし、実生活の中で、聖霊とみ言葉が結ばれたイエスの霊が人と協働することを望む時には、イエスの霊は、この人の意志決定と活動の中に入って協働することについて、この人に同意を求める。神と自己の2つの無情報の暗闇が現れることがそれを示しているのである。これに気づいたとき、瞬時にイエスの霊の望みに答えなければならない。このとき必要なことは、「あなたがたは、『然り、然り』『否、否』と言いなさい。それ以上のことは、悪から生じるのだ」(マタイ5,37)とイエスが言ったとおり、幼子たちがするように、自分に正直に答えることである。人の考えを見抜く神は、キリスト者が神に対しいつも正直であるということを期待している。それは、初めは戸惑いを感じ、心を騒がせおびえることもあるかもしれないが、だんだんに習慣となり、慣れてくると、難しいことではなくなる。

キリスト者が、神に対していつも正直であることを習慣にするには、ヨハネの黙示の訓練と聖霊の2つの霊性による養成、そしてミサに与かることを、自発的にすることが一番助けになる。これらの場面で、イエスの霊は、常にキリスト者の自発性を頼りに近くにいて、励ましている。福音書に示されたすべてのイエスの教えは、絶えず訓練し養成されミサに与かるという習慣を、自発的に身に着けたキリスト者が、イエスの霊と協働することを、自分からも求めることによって実現する。イエスが命じた「だから、あなたがたは、天の父が完全であられるように、完全な者となりなさい」(マタイ5,48)という天の父の完全性は、イエスの霊と協働することによって、キリスト者にもたらされる。

イエスの霊が協働を求める場面は、実際には日常の中でごく小さなことであることが多い。イエスはその小さなことを、キリスト者が、天の父の完全性を持ってすることができるように、すべてを成し遂げ、準備していった。神は、キリスト者に、このイエスの準備をしっかりと受け取り、十全に使うことを求めている。イエスの次の言葉にあるように。

「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者に隠して、幼子たちにお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適うことでした。すべてのことは、父から私に任せられています。父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかに、父を知る者はいません。すべて重荷を負って苦労している者は、私のもとに来なさい。あなたがたを休ませてあげよう。私は柔和で心のへりくだった者だから、私の軛を負い、私に学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に安らぎが得られる。私の軛は負いやすく、私の荷は軽いからである」(マタイ11,25~30)。

つづく

20212月 広島にて

Maria K

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