神学の河口17
キリストの聖体(3)
復活したイエスは、ティベリアス湖畔に現れて、ペトロに「私を愛しているか」と3回尋ねた(ヨハネ21,15~19参照)。この場面で、イエスが、開口一番「ヨハネの子シモン」と呼び、ご自分の付けた名で呼ばなかったのは、彼の自由な意思が、復活したイエスの意志にとらわれることなく、自発性を持って答えるためであった。次に「あなたはこの人たち以上に私を愛しているか」と続けたのは、イエスが受難の前に、「鶏が鳴く前に、あなたは三度、私を知らないと言うだろう」と予告したように、イエスの名と弟子であることを否認したペトロが、イエスが「私」にたとえた神の計画に、自発性を持って従うかどうか確かめたのである。愛は、人が神の計画に向かう自由な意思の自発性を意味する。ペトロは、「はい、主よ、私があなたを愛していることは、あなたがご存じです」と答えている。これは、「はい、主よ、私が自発性を持って神の計画に向いていることは、あなたがご存じです」の意である。そこでイエスは、「私の小羊を飼いなさい」と命じた。
聖霊降臨によって、再び生きるようになったイエスのみ言葉とキリストの聖体は、まさに羊を「世話」し、「飼う」ために必要な水と食べ物である。聖霊は、キリスト者が自発性を持って、み言葉を聞き、キリストの聖体を拝領するためにミサに来るのを待つ。自由な意思の決定を知る必要のない神にとって(「神学の河口」№5参照)、神の計画に向く自発性だけが、愛であり、愛は、神の憐みに対する人の唯一の応答である。
使徒パウロが語る「信仰、希望、愛」とは、「道、真理、命」であるイエスの霊と交わり、善悪の知識が神の計画があることを知って、自由な意思とこれに向かう時、発現する自発性である。人が自発性を持って神の計画があることを認識にすることが信仰であり、この自発性は、自らの希望を神の真理に向ける。そして、この自発性こそが、人を神の計画の只中に飛び込ませる愛そのものである。神は、自由な意思が自発性を持って神の計画に向かうことをひたすらに望む。神は人から「信仰、希望、愛」を受け取るのである。そこでパウロは、「それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残ります。その中で最も大いなるものは、愛です」(1コリント13,13)と書いた。神が受け取ったものは、いつまでも残る。
キリスト者は、自発性を持ってキリストの聖体の前に到達するために、すべての生き物の間に発生する「蛇」の情報(偶発的情報)を知って治める必要がある。格別、人々の間に発生するこの情報を、神の計画と区別することを、習慣のようにしていなければならない。次のイエスのたとえは、この「蛇」の情報(偶発的情報)を知り、これと無関係にある神の計画を、区別することの重要性をよく物語っている。
「ある人が盛大な宴会を催そうとして、大勢の人を招き、宴会の時刻になったので、僕を送り、招いておいた人々に、『もう準備ができましたので、お出でください』と言わせた。ところが、皆、一様に断り始めた。最初の人は、『畑を買ったので、見に行かねばなりません。どうか、失礼させてください』と言った。ほかの人は、『牛を五対買ったので、それを調べに行くところです。どうか、失礼させてください』と言った。また別の人は、『妻を迎えたばかりなので、行くことができません』と言った」(ルカ14,16~20)。
生き物の記憶には、神の計画が置かれ、同時にそこには「蛇」の情報(偶発的情報)が絶えず発生している。そこで、人の五感データの記憶にこれらがあることを、いつも思いめぐらしていなければ、人は、自分の目の前に現れたイベントに無条件に注目し、その必要の前に留まり、自分こそがその必要を満たす者だと信じ切ってしまう。このとき、そこに疑いを挟むことは、非常に困難である。イエスは続ける。
「僕は帰って、このことを主人に報告した。すると、家の主人は怒って、僕に言った。『急いで、町の大通りや路地へ出て行き、貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人をここに連れて来なさい。』やがて、僕が、『ご主人様、仰せのとおりにいたしましたが、まだ席があります』と言うと、主人は言った。『街道や農地へ出て行って、無理にでも人々を連れて来て、この家をいっぱいにしてくれ。言っておくが、あの招かれた人たちの中で、私の食事を味わう者は一人もいない。』」(ルカ14,21~24)。
このイエスの言葉には、ご自分の周りに集まってくる「貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人」を頼みにしていた彼の姿がにじみ出ている。イエスは、「父が私にお与えになる人は皆、私のもとに来る。私のもとに来る人を、私は決して追い出さない」(ヨハネ6,37)と言うほどに、彼に付きまとって離れず、彼を退けない人々を、頼みにする。しかしこのような人々の数は、当時も今もけして多くはない。この人々だけでは、盛大な宴会の席を埋めることはできない。イエスの「無理にでも人々を連れて来て、この家をいっぱいにしてくれ」と言う言葉に、人の意思の決定を知る必要を持たない神であっても、人の意思の決定を知る必要を持つ人でもあるイエスの無念さが表れている。このイエスの無念さを、キリスト者は受け継いでいるはずである。
そこでイエスは、「誰でも、私のもとに来ていながら、父、母、妻、子、兄弟、姉妹、さらに自分の命さえも憎まない者があれば、その人は私の弟子ではありえない。自分の十字架を負って、私に付いて来る者でなければ、私の弟子ではありえない」(ルカ14,26~27)と言ったのである。「父、母、妻、子、兄弟、姉妹」という言葉が指し示す血縁による「自分の命」とは、神が与えた生き物としての命である。この命の体には、五感データの記憶に「蛇」の情報(偶発的情報)が常に生じている。これが神の計画があることを知っているキリスト者が、それぞれに負う十字架である。「自分の命さえも憎まない者があれば」とは、神が置いた『敵意』(創世記3,15参照)を、自分の命に生じた「蛇」の情報(偶発的情報)に向けないなら、「その人は私の弟子ではありえない」との意である(「神学の河口」№14参照)。
福音書は、このときのイエスの様子を、「大勢の群衆が付いて来たので、イエスは振り向いて言われた」(ルカ14,25)と描写している。イエスの動きから、弟子たちもイエスに付いてくる大群衆に目を向けたことであろう。「私は天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民を弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼(バプテスマ)を授け、あなたがたに命じたことをすべて守るように教えなさい」(マタイ28,18~20)というイエスの命令を聞くことになる弟子たちは、このイエスの命令を成し遂げるために、後に続く大群衆を見据えていなければならなかった。イエスは弟子たちを諭し続ける。
「あなたがたのうち、塔を建てようとするとき、造り上げるのに十分な費用があるかどうか、まず腰を据えて計算しない者がいるだろうか。そうしないと、土台を据えただけで完成できず、見ていた人々は皆嘲って、『あの人は建て始めたが、完成できなかった』と言うだろう。また、どんな王でも、ほかの王と戦いを交えようとするときは、二万の兵を率いて進軍して来る敵を、自分の一万の兵で迎え撃つことができるかどうかを、まず腰を据えて考えてみないだろうか。もしできないと分かれば、敵の王がまだ遠くにいる間に、使節を送って和を求めるだろう。だから、同じように、自分の財産をことごとく捨て去る者でなければ、あなたがたのうち誰一人として私の弟子ではありえない。」(ルカ14,28~33)。
イエスが公生活に入る直前に、荒れ野で「蛇」の情報(偶発的情報)によって試みられた場面は(マタイ4,1~11、ルカ4,1~13参照)、ここで弟子たちを諭したイエスの言葉をよく理解させる(「神学の河口」№12参照)。塔を建てようとする者の話は、自由な意思が、神の計画に自発性を向けようとするとき、善悪の知識が、五感データの記憶に絶え間なく発生している「蛇」の情報(偶発的情報)を、同じくこの記憶に置かれている神の計画と区別しないならば(「神学の河口」№14参照)、神の計画に従うことができないというたとえである。また、「蛇」の情報(偶発的情報)は、迎え撃つ自分の一万の兵に、二万の兵を率いて進軍して来る敵である。まさに「まず腰を据えて考えてみなければならない」。「もしできないと分かれば、敵の王がまだ遠くにいる間に、使節を送って和を求める」、すなわち、「蛇」の情報(偶発的情報)と真っ向から戦うのではなく、イエスが荒れ野でして見せたように、これを知り、区別することを言っているのである。
このときこの人が、自分の財産についての気がかりを少しでも持っていれば、これが判断を誤る最も重大なリスクとなる。財産に関わるどのような小さな気がかりでも完全に解決し、記憶から捨て去っている必要がある。さらにこのように、自分の財産をことごとく捨て去る者でなければ、天と地の一切の権能を授かって父から遣わされたイエスが、「父が私をお遣わしになったように、私もあなたがたを遣わす」(ヨハネ20,21)と言った言葉に、相応しい弟子ではない。
イエスが教え諭すことは、キリストの聖体を目指して日常を生きるキリスト者を、日々の戦いに備えさせる。格別に、キリストの聖体が、「私はある」方としてキリスト者をいつも待っていると言う現実を、キリスト者が思い出していることは、大きな助けである。そして、日々ミサに参加し、キリストの聖体を手に取って食べ、また、キリストの聖体を訪ねる時を捻出して生きることは、キリスト者に、自身が永遠の命である自由な意思を持っている者であることを自覚させる。そして、この人の善悪の知識は、毎日新たにされるこの体験を認識にする。この認識は、善悪の知識と結ばれている自由な意思に伝わり、自由な意思が、自発性を持って神の計画に向かう意思に成長する助けとなる。
「塩は良いものである。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって味が付けられようか。土にも肥やしにも役立たず、外に投げ捨てられるだけだ。聞く耳のある者は聞きなさい」(ルカ14,34~35)。自由な意思は、神のものであるから、自発性を持って神の計画に向き、言葉と行為によってこれを成し遂げるまで完全に満足することはない。自由な意思がキリストの聖体と向き合う時、「私はある」方として現存する神の真理に、自由な意思は希望を見出し、神の計画に向かう自発性を覚える。この自発性が愛である。全能である神は自身の自発性を必要としない。愛は常に人のシンボルである。人は愛である。ゆえに、神であっても、完全に人でもあったイエスは、愛であった。そして、死によって消滅した彼の人性を、キリストの聖体によって、聖霊の協力者である全キリスト者が引き継ぐのである。そこで、すべてのキリスト者が、日々キリストの聖体を受け取って食べることができるために、互いに歩み寄り、その方法を全力で模索することは、キリストを信じるすべての者の緊急課題である。
つづく
2020年8月 広島にて
Maria K
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