神学の河口22

ヨハネの黙示と聖霊の2つの霊性



イエスの訓練を直接受けた弟子たちは、イエスとともに過ごし、神が共にいる生活を体験した。そして彼らは、神であり人でもあるイエスの持つ世界観、すなわち神の国の世界観を共有した。弟子たちは、イエスご自身が持っていた神の国の世界観の中で、イエスに訓練されることによって、「神の計画」を知ることに慣れ、それを身に着けていった。そして、「神の計画」と「蛇」の情報(偶発的情報)を少しずつ切り離し、区別するようになった。最後の夕食の席で、弟子たちが「今は、はっきりとお話しになり、少しもたとえを用いられません。あなたがすべてのことをご存じで、誰にも尋ねられる必要がないことが、今、分かりました。これで、あなたが神のもとから来られたと、私たちは信じます」(ヨハネ16,29~30)と言えるまでになったのは大きな進歩であった。イエスの訓練は、イエスが「よくよく言っておく。アブラハムが生まれる前から、『私はある。』」(ヨハネ8,58)と言った、神の永遠の命の知識に弟子たちを留まらせ、それによって弟子たちは、聖霊の降臨を待ち、その霊性を受け取る共同体になることができた。

使徒言行録には、聖霊が降臨した後、「信じた者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし、財産や持ち物を売っては、必要に応じて、皆がそれを分け合った。そして、毎日ひたすら心を一つにして神殿に集まり、家ではパンを裂き、喜びと真心をもって食事を共にし、神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた。こうして、主は救われる人々を日々仲間に加えてくださったのである」(使徒言行録2,44~47)と書かれている。一方で、使徒たちによって多くの不思議な業としるしが行われていたので、この人々に恐れが生じた(使徒言行録2,43参照)。それが神への畏敬の念からであったとしても、この「恐れ」は、やがて起こったアナニアと妻のサフィラの事件(使徒言行録5,1~11)や、ギリシア語を話すユダヤ人とヘブライ語を話すユダヤ人の間に生じた問題(使徒言行録6,1)を、防ぐことはなかった。

ヨハネは、これらの出来事を思いめぐらしながら、自分の共同体の世話をするうちに、聖霊の霊性とつながるすべてのキリスト者に、聖霊降臨に向けてイエスが弟子たちを訓練した神の国の世界観が、どうしても必要であると考えるようになったにちがいない。そして、それを神に願い、黙示録を授かった。こうして、イエスの訓練によって与えられた神の国の世界観が、ヨハネの黙示によみがえったのである。

前回考察したように、ヨハネの黙示は、この書を朗読し、それを聞くことによって、その言葉が訓練者の感覚(五感データ)に入り、イエスが弟子たちを訓練した神の国の世界観を与える。この訓練は、基本的に一人で行うものである。それは、自分で声に出して、その声を聞いて確認することは、脳の意識レベルを高め、ヨハネの黙示の中に隠されている、神の国の世界観をすみやかに体感させるからである。

このようにして、弟子たちが受け取ったイエスの訓練の世界を体験し、その感覚を身に着けることができる。このとき、朗読する自分の声に耳を澄ませ、じっと集中するように聞くことが大切である。善悪の知識がフィクション(虚構)を創り出し(「神学の河口」№1821参照)、何らかの識別をすることを避けるために、場面を想像することや、理解しようとしてはならない。イエスの両親も、また弟子たちも、イエスとともにいて、「分からなかった」という体験を持った(ルカ2,509,4518,34参照)。イエスが渡される夜にしたように、ヨハネの黙示は、訓練者の足を洗う(ヨハネ13,1~15参照)。そして、イエスはペトロに次のように言ったのである。「私のしていることは、今あなたには分からないが、後で、分かるようになる」(ヨハネ13,7)。

イエスは、「後で、分かるようになる」ために、すべての準備をした。人を創造し、善悪の知識と感覚(五感データ)を創造した神のみ言葉であるイエスは、人の脳の構造を知り尽くしていた。そこで「神の計画」をすべて担って来たイエスは、ご自身が神の国となって、弟子たちを訓練したのである。イエスが、彼に従って来た洗礼者ヨハネの弟子たちと出会ったときの出来事は、イエスの意図を明らかに物語っている。すでにユダヤの伝統によってメシア像を持っていた、そしてメシアの到来をはっきりと望んでいた洗礼者ヨハネの弟子たちに、イエスは、神の国の世界観を見せた。すでに知識を持っていた彼らに、体験させたのである。

「イエスは振り返り、二人が従って来るのを見て、『何を求めているのか』と言われた。彼らが、『ラビ――「先生」という意味――どこに泊まっておられるのですか』と言うと、イエスは、『来なさい。そうすれば分かる』と言われた。そこで、彼らは付いて行って、どこにイエスが泊まっておられるかを見た。そしてその日は、イエスのもとに泊まった。午後四時ごろのことである。ヨハネから聞いて、イエスに従った二人のうちの一人は、シモン・ペトロの兄弟アンデレであった。彼は、まず自分の兄弟シモンに会って、『私たちはメシア――「油を注がれた者」という意味――に出会った』と言った。そして、シモンをイエスのもとに連れて行った」(ヨハネ1,38~42)。

このように、キリスト者が実際にヨハネの黙示を朗読して聞くという訓練を始めるためには、この訓練が有効であるという、善悪の知識の判断が必要である。このため、前回も前々回も、黙示録の解釈を試みた。それはキリスト者が、ヨハネの黙示が確かに福音書と固く結ばれたものであり、自分の身を任すのに、絶対の信頼をもつことができると確信するためであった。この信頼が、キリスト者にイエスの神の国の世界観を完全に共有させ、聖霊の2つの霊性を受け取る基礎になる。

弟子たちが「後で、分かるようになる」ために、イエスがすべての準備をしたということは、降臨する聖霊のためにすべてを準備したということである。そして聖霊は、「その方は私に栄光を与える。私のものを受けて、あなたがたに告げるからである」(ヨハネ16,14)と言ったイエスの言葉を実現した。使徒言行録を見ると聖霊は、「突然、激しい風が吹いて来るような音が天から起こり、彼らが座っていた家中に響いた」(使徒言行録2,2)と書かれたように、そこにご自分の空間をもたらした(第1の霊性)。また、「炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった」(使徒言行録2,3)と書かれたように、同じ場所に集まっている弟子たちとつながった(第2の霊性)。聖霊は、この2つの霊性に与かった弟子たちを通して、復活したイエスが地上で語った最後の言葉を次の通り実現し、イエスに栄光を与えた。

聖霊は降臨し、イエスが訓練した弟子たちとつながり、その物音を聞いたエルサレムに住んでいる大勢の「天下のあらゆる国出身の信仰のあつい人々」を、聖霊のもたらした空間に集めた。そして弟子たちは、聖霊が語らせるままに、他国の言葉で話し、集まって来た人々は、誰もが、自分の故郷の言葉で、神の偉大な業が語られるのを聞いた(使徒言行録2,1~12参照)。それは、「あなたがたは行って、すべての民を弟子にしなさい」(マタイ28,19)、「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい」(マルコ16,15)という、復活したイエスの命令が、すでに実現したしるしである。

そして、ペトロは、十一人と共に立って、声を張り上げ、話し始め、「神はこのイエスを復活させられたのです。私たちは皆、そのことの証人です。それで、イエスは神の右に上げられ、約束された聖霊を御父から受けて注いでくださいました。あなたがたは、今このことを見聞きしているのです」(使徒言行録2,32~33)と語った。このエルサレムでのペトロの最初の証しは、「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、その名によって罪の赦しを得させる悔い改めが、エルサレムから始まって、すべての民族に宣べ伝えられる。』あなたがたは、これらのことの証人である」(ルカ24,46~48)と言った復活したイエスの言葉と一致している。

「ペトロの言葉を受け入れた人々は洗礼(バプテスマ)を受け、その日に三千人ほどが仲間に加わった。そして、一同はひたすら、使徒たちの教えを守り、交わりをなし、パンを裂き、祈りをしていた」(使徒言行録2,41~42)。これは、「彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼(バプテスマ)を授け、あなたがたに命じたことをすべて守るように教えなさい。私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイ28,19~20)という復活したイエスの言葉の実現である。

聖霊のもたらしたこの空間は、ミサ典礼の中でその姿をはっきりと現す。ミサが捧げられる空間が、イエスが弟子たちとともに最後の夕食をとり、聖体を制定した2階の広間であり、同時に「イエスの母マリア」と使徒たち、そして他の弟子たちが、聖霊を待ってともに祈っていた上の部屋(使徒言行録1,13~14参照)と、時間の流れが続いていることでつながっているからである。この空間は、父と子と聖霊の名によって洗礼(バプテスマ)を受け、仲間に加わったキリスト者を常に受け入れる場として広がり続け、この空間自体が、中にいるキリスト者を養成する。これが聖霊の第1の霊性である。キリストの聖体は、み言葉が人となったイエスの体と血と、み言葉を認識にする聖霊の意志が、司祭の協力のもとに、御父の意志によって、すなわち「神の計画」によって、一体になったことの目に見える証しである。ヨハネの黙示の訓練で得たイエスの与えた神の国の世界観は、ご聖体が置かれているこの空間が、キリストの再臨に向かって開かれていることをキリスト者に認識させる。

ご聖体の前で「炎のような舌」とつながった人の善悪の知識は、まるで光の束とつながったかのように、神の情報と自己の情報が共に無になる暗闇を体験する。この無情報の暗闇こそが、「炎のような舌」とつながったしるしである。これが聖霊の第2の霊性である。この体験によって、「すべて重荷を負って苦労している者は、私のもとに来なさい。あなたがたを休ませてあげよう。私は柔和で心のへりくだった者だから、私の軛を負い、私に学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に安らぎが得られる。私の軛は負いやすく、私の荷は軽いからである」(マタイ11,28~30)というイエスの言葉の意味が、明らかになってくる。

「休ませてあげよう」というイエスのみ言葉を頼りにして、キリスト者はご聖体の前に来る。そこで、恵みをいただいたこれらの経験者の多くが、「ご聖体から元気をもらう」と感想を語る。しかし、求める者には、この先に狭い門が待つ。この人は、はっきりとご聖体の存在を意識し、こちらから進んでその養成に入るという意志表示を持ってご聖体の前に座りなおす。この被養成者は、「私は柔和で心のへりくだった者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい」という主の勧めを文字通りに受け取って、主の“軛”とつながろうとして、ご聖体に集中する。ご聖体は門である。この人は、イエスが「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない」(マタイ7,13~14)と言った通り、細い道を見いだすために自発的に名乗りを上げたのである。

神の無情報の暗闇の中では、これまで持っていたはずの「神の計画」についての知識も、この光に飲み込まれてしまったように、見えなくなる。光につながったにもかかわらず、神についての一切の情報がなくなるので、不慣れなうちは不安になり、自分からすぐに神の無情報の暗闇から出て、このつながりをほどいてしまう。しかし、それがたとえ一時でも、聖霊の霊性と直接つながって得た「神の計画」の知識の記憶は、善悪の知識の記憶に残り、聖霊の望む時にその内容が再生される。それはその場で再生されることもあるが、時間をおいて再生されることもある。すると聖霊の霊性に満たされ、神の無情報の暗闇の中で「神の計画」を見たことが実感される。

この神の無情報の暗闇に慣れてくると、さらにご聖体に集中するようになる。この集中は、十字架の計画を内蔵するご聖体の力におおいに助けられる。それは、十字架上で御父の力とひとつになったイエスの引き寄せる力である。ご聖体のこの引き寄せる力を意識して、呼吸を睡眠の時のように安らかに規則正しく整えると、気が下がり自分自身が静かに低められていくのが分かる。この人の善悪の知識が、キリストの聖体と向き合う自身を、ご聖体と釣り合うようにしようとするのである。それは、「私は柔和で心のへりくだった者だから」と言ったときのイエスの人性に、自分を合わせることになる。こうしているうちに、やがて自己の情報も無くなる暗闇を体験する。たとえそれが瞬時であったとしても、神と自己の2つの無情報の暗闇を同時に体験することが、次に、聖霊の意志とみ言葉が結ばれたイエスの霊を担う瞬間を受け取るための前提条件になる。「私の荷は軽いからである」とイエスが言った荷は、イエスの霊であった。

つづく

20211月 広島にて Maria K

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