神学の河口21

福音記者ヨハネの挑戦(4)



ヨハネの黙示は、「神の計画」を感覚で受け取るための訓練の書である。そのために内容を把握していることは、言葉の持つイメージを感覚に入りやすくさせる。前回、黙示録を3つの部分に分けて、第一部、第二部について扱った。そこで、続けて第三部から、その要点を考察し、この訓練が目指すところもはっきりさせておきたい。

「また、天に大きなしるしが現れた。一人の女が太陽を身にまとい、月を足の下にし、頭には十二の星の冠をかぶっていた」(黙示録12,1)。前回考察したように、この「天」は、聖霊によってもたらされた「天」である。「一人の女が太陽を身にまとい」の「太陽」は、「顔は強く照り輝く太陽のようであった」(黙示録1,16)と書かれた方を指し、彼女はこの方の栄光を身にまとっているのである。この文は、天使がマリアに告げた「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを覆う」(ルカ1,35)という言葉と符合する。そして、イエスが、ご自分の母に、「女よ」と語りかけたことを思い出すと(ヨハネ2,4、19,26参照)、この「一人の女」から、「イエスの母マリア」(使徒言行録1,14参照)のイメージが浮かんでくる。 

この女性は、この世の夜を照らす「月」を足の下にしている。「月」が地上の事柄を指すと捉えれば、「月を足の下にし」という言葉は、「天」に現れた彼女が、未だ地上の事柄に関わっていることを示唆している。頭にかぶっている冠の「十二の星」の「星」は、天使を指している(黙示録1,20参照)。これは、「都には高い大きな城壁と十二の門があり、それらの門には十二人の天使がいて、名が刻みつけてあった。イスラエルの子らの十二部族の名であった」(黙示録21,12)と書かれている「十二の門の天使」である。この天使たちは、悪霊を麦と毒麦に分けて自由な意思を救っているのである(「神学の河口」№16参照)。そこで、この「十二の星」の冠は、神の救いの業が継続されていることの象徴である。実際にイエスの母マリアは、神の独り子と親子の関係になることを承諾し(ルカ1,26~38参照)、救い主の母となった。さらに十字架上のイエスの指示に従って、「愛する弟子」と親子の関係を結ぶことを承諾した(ヨハネ19,26~27参照)。これによって「愛する弟子」、すなわち使徒は、救い主の母としての全権を継承し、キリストの聖体によって、救いの業を継続するのである。 

ヨハネの黙示は、第三部から「イエスの母マリア」のイメージをはっきり登場させておく必要があった。それは、訓練者が、救いの業が続いていることを記憶に留めておくためである。巨大な赤い竜が天に現れたからである(黙示録12,3~4参照)。この竜は、いつも訓練者の内に、身近にいる。しかも訓練者は、最初は第1の「幸い」(黙示録1,3参照)だけに同伴されて進まねばならない。すなわちヨハネの黙示を朗読し、聞く訓練を続けるのである。「神の計画」をより実践的に感覚から身につけていくためである。そして、天使が永遠の福音を携えて空高く飛び、神の裁きの時を告げると(黙示録14,6参照)、他の6つの「幸い」が加わるようになる。 

他方、「女は身ごもっていて、産みの痛みと苦しみのために叫んでいた」(黙示録12,2)と書かれたこの「女」は、聖霊の花嫁として描かれ、聖霊によってキリストの聖体を生む司祭である(「神学の河口」№19参照)。十字架上のイエスは、ご自分の母と「愛された弟子」を親子の絆で結んだとき、この母に「女よ」と呼びかけた(ヨハネ19,26参照)。ヨハネは、ここから司祭を、イエスの母マリアにちなんで、「女」と呼び、この言葉に司祭職を隠すアイディアを持ったに違いない。司祭は、迫害や異端と戦いながら、キリストの聖体を生もうとしているのである。そこで、「女は男の子を産んだ。この子は、鉄の杖であらゆる国の民を治めることになっていた。子は神のもとへ、その玉座へと引き上げられた」(黙示録12,5)と書かれた「男の子」は、キリストの聖体である。聖霊によって司祭から生まれるキリストの聖体は、「鉄の杖」で表された司祭職とともに、あらゆる国の民を治めることになっていた。「子は神のもとへ、その玉座へと引き上げられた」とは、「天に玉座があり、そこに座っている方がおられた」(黙示録4,2)と合致する。前回見たとおり、玉座に座っている方は、「キリストの聖体」である。 

「女は荒れ野へ逃げた。そこには、この女が千二百六十日の間養われるように、神の用意された場所があった」(黙示録12,6)。「荒れ野」とは、ここでは人の感覚(五感データ)の記憶を指す。すべての生き物の感覚の記憶には、「神の計画」が置かれている。自由な意思と善悪の知識を持っていなくとも、生き物が神に従って生きることができるためである。神は、初めに創造した「人」から女を取ったとき、そのあとを肉で閉ざして男を創造した(創世記2,21参照)。ここから、すべての男性は、神が閉ざした肉の記憶を持っている。これが「荒れ野」にある「神の用意された場所」である。神は後にアブラハムに、「あなたがたのうちの男子は皆、割礼を受けなければならない」(創世記17,10)と命じ、この閉ざした肉を聖別した。さらに、モーセによってエジプトを脱出した後、この民の男性に祭司職を与えた。そして、イエスも、この民の男性から使徒を選び、この使徒たちが新約の司祭職を初めに受け取ったのである。そして復活したイエスは、全世界に彼らを遣わした。司祭職は、「神の計画」としてすべての男性の感覚(五感データ)の記憶に置かれているが、その神秘は、聖霊によって導き出されるまで、誰も知ることはできない。 

ここで登場する巨大な赤い竜は、「いにしえの蛇、悪魔ともサタンとも呼ばれる者、全人類を惑わす者」(黙示録12,9)と書かれているところから、最初にエデンの園で発生した「蛇」の情報(偶発的情報)である(「神学の河口」№11参照)。そして、イエスの復活が隠されたために(マタイ28,11~15参照)、復活を信じなかった人々の間で「巨大な赤い竜」になったのである。この「赤」は、イエスが流した血によって立てられた新しい契約を意味し、この名によって竜が、聖体祭儀でこれを再現することを担う司祭(「女」)と、司祭が生まれ出る共同体を、標的にすることを暗示している。 

この巨大な赤い竜が、その使いたちもろともに地上に投げ落とされたのは(黙示録12,7~9参照)、「私は、サタンが稲妻のように天から落ちるのを見ていた」(ルカ10,18)と言ったイエスの予告の実現である。そして、弟子たちは、イエスの残した「主の祈り」によって、御父のみ名に守られている。イエスは最後の食卓で、万感の思いをこめて、天の父に次のように祈った。「私は、もはや世にはいません。彼らは世におりますが、私は御もとに参ります。聖なる父よ、私に与えてくださった御名によって彼らを守ってください。私たちのように、彼らも一つとなるためです。私は彼らと一緒にいる間、あなたが与えてくださった御名によって彼らを守りました。私が保護したので、滅びの子のほかは、誰も滅びませんでした。聖書が実現するためです」(ヨハネ17,11~12)。 

そこで「竜は女に対して激しく怒り、その子孫の残りの者たち、すなわち、神の戒めを守り、イエスの証しを守る者たちと戦うために出て行った。そして、竜は海辺の砂の上に立った」(黙示録12,17~18)。海辺の砂とは、竜に惑わされた、「地の四方にいる諸国の民」である(黙示録20,8参照)。 

竜は、人が複数になったとき偶発的に発生する「蛇」の情報である。そこでそれは、さまざまに起こる出来事の只中に人々が巻き込まれていくように動いていく。しかし、竜(「蛇」)は、ただの情報であるから、自ら具体的に人々と世に働きかけることはない。働きかけるのは、常にそれを自分の知識と捉え、言動にする人々である。「蛇」の情報(偶発的情報)を自分の知識と捉えた人には、サタン化が起こる(「神学の河口」№1213参照)。そこで、ヨハネは、このサタン化した人々を、「獣」と表現したのである。そして、「海から上って来る」(黙示録13,1)と、「地中から上って来る」(黙示録13,11)という言葉の符合によって、これらの獣の特徴が、創世記の物語に関連づけられていることを示唆した。 

「また私は、一頭の獣が海から上って来るのを見た。その獣には十本の角と七つの頭があり、角には十の王冠、頭には神を冒瀆する名があった」(黙示録13,1)。このイメージは、創世記の「神は大きな海の怪獣を創造された」(創世記1,21)と符合する。「私が見たこの獣は豹に似ていて、足は熊のようで、口は獅子のようであった」(黙示録13,2)と描写しているところからも、これはまさに、「怪獣」である。この獣は、創世記で、「蛇」の情報(偶発的情報)の発生によって、善悪の知識の木の実を食べてしまった初めの女がモデルである。彼女は、禁じられていた実を食べたという矛盾から逃れるために、意図せずに「蛇がだました」というフィクション(虚構)を作り出した(「神学の河口」№14参照)。「角には十の王冠」という描写から、この獣が矛盾を持っていることが分かる。巨大な赤い竜について「頭には七つの王冠をかぶっていた」(黙示録12,3)と描写されたように、また、他の箇所でも描写されたように、王冠は角にではなく頭にかぶるものだからである。 

初めの女は、自分が初めて持った矛盾を、善悪の知識によって思いついたフィクション(虚構)でごまかした。一方神は、女が蛇にたとえた「蛇」の情報(偶発的情報)に「お前と女、お前の子孫と女の子孫との間に、私は敵意を置く。彼はお前の頭を砕き、お前は彼のかかとを砕く」(創世記3,15)と宣言した。神の置いた「敵意」は、人が善悪の知識の木の実を食べて持った善悪の知識に置かれた。この「敵意」は、善悪の知識が、知識として取り込んだ「蛇」の情報(偶発的情報)に向けられる。善悪の知識が自由な意思と結ばれているために、自分の知識として取り込んだ「蛇」の情報(偶発的情報)に、人の言動のすべてが左右されるからである。イエスは、救い主として、まさにこの神が置いた「敵意」そのものになって地上に到来した。このためにイエスは、誕生したその時から暗殺者を送られた(マタイ2,13~18参照)。そして十字架上の死に至るまで、神が置いた「敵意」として生き抜き、人の善悪の知識に、神の置いた「敵意」があることを世に明らかに示した(「神学の河口」№14参照)。 

第二の獣は、「また私は、もう一頭の獣が地中から上って来るのを見た。この獣には、小羊に似た二本の角があって、竜のように語った」(黙示録13,11)と書かれている。「地中から上って来る」は、創世記で「人」が土の塵から取られたことを指す。すると、「小羊に似た二本の角があって」とは、この「人」の体のほとんどを継承し、「人」に似た者となった初めの男が、サタン化し「獣」になった姿を描写したと分かる。神に禁じられた善悪の知識の木の実を食べたことが神に知れたとき、神に向かって、まさに「竜のように語った」男、アダムである(創世記3,9~12参照)。この男は、「あなたが私と共にいるようにと与えてくださった妻、その妻が木から取ってくれたので私は食べたのです」(創世記3,12)と言って、自分の成した行為を、女の行為の延長線上に置いて正当化した。そして、その原因を神に帰した。この男には、神を無視し、人の権威を誇示して神に対抗するサタン化が起こった(「神学の河口」№12参照)。 

黙示録には、創世記のアダムがそうであったように、第二の獣が第一の獣と「蛇の頭」(「神学の河口」№13参照)を形作り、連動して巨大な力をつけていく様子が描かれている。それは、「獣は頭の一つに死ぬほどの傷を受けたが、この致命的な傷も治ってしまった。そこで、全地は驚いてこの獣に服従した」(黙示録13,3)からである。これは、イエスが、「私も言っておく。あなたはペトロ。私はこの岩の上に私の教会を建てよう。陰府の門もこれに打ち勝つことはない」(マタイ16,18)と言った「私の教会」が、イエスのわき腹から流れ出た血と水を浴びて生み出され、聖霊降臨によって、イエスの教えを認識にした弟子たちによって立ち上がったとき砕いた「蛇の頭」(創世記3,15参照)が、治ってしまったということである。それは一方でキリスト者のかかとが砕かれたことを表している。そこでヨハネは、創世記の初めの登場人物、蛇と男と女の関係に挑戦すべく、黙示録の世界を描いた。イエスの訓練を継続するためである。 

イエスの訓練とヨハネの黙示の訓練の共通性は、格別に次の箇所で比較できる。共観福音書にはどれも、イエスがパンを増やす場面の前に、使徒たちを宣教に派遣したことが書かれている。イエスは彼らを訓練のために派遣したのである。ミサを目指すヨハネの黙示もこの流れを汲んでいる。イエスは、使徒たちに権能を授けて派遣した。この権能は、彼らに独特の世界観を与えた。彼らが帰ってきてどのような感想を持ったかは、書かれていないが、ルカ福音書は、イエスが別に72人の弟子たちを派遣した時、それを記載した。「主よ、お名前を使うと、悪霊どもでさえ、私たちに服従します」(ルカ10,17)。この言葉から、彼らが、「神の計画」とその前に服従する「蛇」の情報(偶発的情報)を体験し、2者の在り方に気づいたことが察せられる。弟子たちがこの体験と気づきに至る世界観を得るためにこそ、イエスは彼らに権能を授けた。ヨハネの黙示には、それを朗読し、聞く者に、この体験と気づきに至る世界観を与える効果がある。 

「蛇」の情報(偶発的情報)は、人に気づかれ、「神の計画」と区別されることによって、人の善悪の知識にいないも同然となる。イエスが「荒れ野の誘惑」の場面で証明した通りである(マタイ4,1~10、ルカ4,1~13参照)。一方、「そこで、悪魔は離れ去った。すると、天使たちが近づいて来て、イエスに仕えた」(マタイ4,11)と書かれた通り、神の現実である「天」に、竜とその使いたちの居場所はなくなる。彼らは地上に投げ落とされたのである(黙示録12,9参照)。「地上」には、「神の計画」も「蛇」の情報(偶発的情報)も知らない多くの人々が生きている。イエスはこの人々に懸命に証しした(ヨハネ5,19~47参照)。「天」にはイエスの霊と天使、「神の戒めを守り、イエスの証を守る者たち」(黙示録12,17)が残る。彼らは、聖霊のもたらした空間の「天」から自由にこの「地上」に挑む。彼らと竜たちとの戦いは、いわば互いに次元の異なる世界観の戦いであり、けして交わることはない。これは、この戦いを見る訓練者がよく抑えておかねばならない要点である。 

ヨハネの黙示の作り出す、このいわば次元の異なる2つの世界観のぶつかり合いは、ここで自分を訓練する者を、ヨハネの立っている場所に立たせ、この戦いを眺めるようにさせる。眺めながら、同時に自分の実生活が重なって見えてくることがある。自身の思考、言動、他者との交わりなど、そこに発生する無数の事柄は、自分の記憶の中で重なり合い、その構造が時に複雑に見え、時には単純にも見える。つかんだようで、つかみどころがない。あたかも黙示録の中の目の前で繰り広げられている戦いのように見えてくるのである。このとき、自分の感覚(五感データ)の記憶を、み言葉が貫き通すのを見る体験をする。両刃の剣を感覚(五感データ)の記憶に受け、切り裂かれた記憶の断片を見る。自分の善悪の知識がこの記憶の断片とつながった時、そこに、以前につながったとき取り出して自分の知識としたデータ以外に、自分が取り出さなかったデータがあることに気付く。自分は、完全なデータを知識として取り込まなかったのである。これが「砕かれたかかと」である。自分は不完全なデータをもとに判断したという動揺と不安の中でも、訓練者が勇気を持って、自分に対峙し、これまでのデータの記憶と今回気づいた記憶をもとに、善悪の知識の判断を修正したとき、同時に深い平安を受け取る。 

使徒パウロが地に倒れ、イエスの霊の声を聞いた後、「三日間、目が見えず、食べも飲みもしなかった」(使徒言行録9,9)のは、彼の善悪の知識が、神の言葉によって、両刃の剣で切り裂かれた感覚(五感データ)の記憶から、これまで気づこうともしなかった、新しいデータを取り出して、自分の記憶と判断を修正していたからである。一方アナニアは、イエスの霊によって伝えられた「神の計画」を、「蛇」の情報(偶発的情報)と区別し、出かけて行った。イエスの声に慣れ親しんでいた彼は、パウロについての悪い話が、たとえ信頼できる仲間からの情報であっても、迷うことがなかった。ついにこの2人は出会った。アナニアの言葉に、「たちまち目からうろこのようなものが落ち、サウロは元どおり見えるようになった。そこで、身を起こして洗礼(バプテスマ)を受け、食事をして元気を取り戻した」(使徒言行録9,18~19)。 

ここに第2の「幸い」が同伴する。「『書き記せ。「今から後、主にあって死ぬ人は幸いである。」』霊も言う。『然り。彼らは労苦を解かれて、安らぎを得る』」(黙示録14,13)。 

ヨハネの黙示に「神の計画」と「蛇」の情報(偶発的情報)の、いわば次元の異なる2つの世界観のぶつかり合いを見ることができるのは、すべての悪と罪にイエスが勝利したからである。イエスが弟子たちに、「私はもはや、あなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人のしていることを知らないからである。私はあなたがたを友と呼んだ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである」(ヨハネ15,15)と言ったように、「神の計画」がどのようなものか、イエスは弟子たちにすべて伝えた。そこで、訓練者は、自分が今、「神の計画」を自分の知識としているか、「蛇」の情報(偶発的情報)を知識としているか、わかることができる。訓練者は、この世界観のぶつかり合いから「神の計画」を見極め受け取るようになる。そして、洗礼の初めから、知識で受け取って信じた「神の計画」を、感覚でも受け取り、認識にする。目が覚め、永遠の命を身に着けていることを知る。これが、ヨハネの黙示の訓練の目指すところである。 

ここに、第3の「幸い」が同伴する。「見よ、私は盗人のように来る。裸で歩くのを見られて恥をかかないように、目を覚まし、衣を身に着けている人は幸いである」(黙示録16,15) 

イエスは自らを「花婿」にたとえた。それは、キリスト者やその共同体である教会を、ご自分の、母、兄弟姉妹、友人と呼んで、初めからご自分の側に置くためであった。「小羊の婚礼の日が来て、花嫁は支度を整え、輝く清い上質の亜麻布を身にまとった。この上質の亜麻布とは、聖なる者たちの正しい行いである。」(黙示録19,7~8)と書かれているように、「小羊の婚礼の日」とは、聖霊と司祭が協働する姿が公に表れる日である。ミサの中で、キリストの聖体は生まれ出る。福音書のイエスの誕生の場面が描いたように、この夜、小羊と初めて対面した人々は、マリアとヨセフ、そして貧しい羊飼いたちであった。この人々は、明らかにイエスの側に立つ人々であった。神は、キリスト者やその共同体である教会を、再びこの場面に招く。 

ここで第4の「幸い」が同伴し、訓練者の眼差しを、ミサに向ける。「それから、天使は私に、『書き記せ。小羊の婚礼の祝宴に招かれている者は幸いだ』と言い、また、『これらは、神の真実の言葉である』とも言った」(黙示録19,9)。 

「それから、私は天が開かれているのを見た。すると、白い馬が現れた。それに乗っている方は、『忠実』および『真実』と呼ばれ、正義をもって裁き、また戦われる。その目は燃え盛る炎のようで、頭には多くの王冠を戴き、この方には、自分のほかは誰も知らない名が記されていた。この方は血染めの衣を身にまとい、その名は『神の言葉』と呼ばれた」(黙示録19,11~13)。これは次のイエスの言葉の実現である。「その方、すなわち真理の霊が来ると、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれる。その方は、勝手に語るのではなく、聞いたことを語り、これから起こることをあなたがたに告げるからである。その方は私に栄光を与える。私のものを受けて、あなたがたに告げるからである」(ヨハネ16,13~14)。この方は、真理に導き、勝手に語るのではない方、「忠実」および「真実」と呼ばれる方、聖霊である。また、「この方は血染めの衣を身にまとい、その名は『神の言葉』と呼ばれた」とあるのは、地上に残されたイエスの言葉と結ばれた聖霊の意志、すなわちイエスの霊だからである。「この方には、自分のほかは誰も知らない名が記されていた」とは、神の第1と第2のペルソナが、「御父」と「御子」という役割の名で呼ばれるように、「神の国で過越が成し遂げられる」(ルカ22,16)とき呼ばれることになる、聖霊の役割の名が記されているのである。 

キリストの勝利は今も継続する。「この方の口からは、鋭い剣が出ている。諸国の民をそれで打ち倒すのである。また、自ら鉄の杖で彼らを治める。そして、この方はぶどう酒の搾り桶を踏む。そのぶどう酒には、全能者である神の怒りが込められている」(黙示録19,15)。「鋭い剣」はみ言葉を、「自ら鉄の杖で彼らを治める」とは、キリストの聖体と、御血による新しい契約が、この人々を取り戻すのである。全能者である神の怒りが込められている神が踏んだ搾り桶から取れたぶどう酒とは、神の置いた「敵意」が込められたキリストの御血である。十字架上でイエスは、神の置いた「敵意」そのものになって、一緒に十字架につけられた犯罪人の自由な意思を、「神の計画」に向けて取り戻した(「神学の河口」№14参照)。 

「また私は、一人の天使が、底なしの淵の鍵と大きな鎖を手にして、天から降って来るのを見た。この天使は、悪魔でありサタンである竜、すなわち、いにしえの蛇を捕らえ、千年の間縛って、底なしの淵に投げ込み、鍵をかけ、その上に封印をした」(黙示録20,1~3)。「千年の間」とは、地上でミサが続く時を指す。典礼様式が確立されれば、前もって定められたその流れの中に、「蛇」の情報(偶発的情報)は入ることができない。またこのためにこそ典礼様式はある。「また私は、多くの座を見た。その上には座っている者たちがおり、彼らには裁くことが許されていた」(黙示録20,4)。彼らは、悪霊を裁く「十二の門の天使」たちである(「神学の河口」№1619参照)。 

「また私は、イエスの証しと神の言葉のゆえに首をはねられた者たちの魂を見た。この者たちは、あの獣も獣の像も拝まず、額や手に刻印を受けなかった。彼らは生き返り、キリストと共に千年の間支配した。その他の死者は、千年が終わるまで生き返らなかった。これが第一の復活である」(黙示録20,4~5)。「これが第一の復活である」という言葉は、この文全体にかかり、そこに神の救いの構造があることを示している。この構造は、ミサに深く関わる聖霊の2つの霊性に与かることによって、はっきりと知ることができる。その内容については、次回以降で取り扱う。 

第5の「幸い」は、ヨハネの黙示の訓練者に、聖霊の2つの霊性に与かることを勧める。第二の死とは、第一の死を受け取れず、悪霊になった自由な意思の状態である(「神学の河口」№16参照)。「第一の復活にあずかる者は、幸いな者であり、聖なる者である。この人たちには、第二の死は無力である。彼らは神とキリストの祭司となって、キリストと共に千年の間支配する」(黙示録20,6)。 

「また私は、大きな白い玉座と、そこに座っておられる方を見た。天も地も、その前から逃げて行き、見えなくなった。また私は、死者が、大きな者も小さな者も玉座の前に立っているのを見た。数々の巻物が開かれ、また、もう一つの巻物、すなわち命の書が開かれた。これらの巻物に記されていることに基づき、死者たちはその行いに応じて裁かれた。」(黙示録20,11~12)。三位一体の神が現存するキリストの聖体は、「神の言葉」(黙示録19,13参照)の玉座である。「天も地も、その前から逃げて行き、見えなくなった」とは、キリストの聖体が現れ、筆者自身が、「天」とつながる地上のミサの現場の只中にいるために、「見えなくなった」のである。開かれた命の書に記されていることに基づき、死者たちをその行いに応じて裁いていくのは、「十二の門の天使」たちである。これは、「私を拒み、私の言葉を受け入れない者に対しては、裁くものがある。私の語った言葉が、終わりの日にその者を裁く」(ヨハネ12,48)とイエスが言った通りである。 

ヨハネの黙示は、「この預言の言葉を朗読する者と、これを聞いて中に記されたことを守る者たちは、幸いだ。時が迫っているからである」(黙示録1,3)という第1の「幸い」から始まり、この幸いは、これを聞く者に同伴し、「見よ、私はすぐに来る。この書の預言の言葉を守る者は、幸いである」(黙示録22,7)という第6の「幸い」に到達する。「見よ、私はすぐに来る」という言葉が、この章で3度繰り返されていることに注目しなければならない。初めの言葉は、この訓練を受ける者に同伴するイエスの霊、すなわち「幸い」である。二つ目は、聖霊の2つの霊性に与かる者に、イエスの霊は、すぐにもつながるという意である。「見よ、私はすぐに来る。私は、報いを携えて来て、それぞれの行いに応じて報いる」(黙示録22,12)という言葉がそれを示している。最後は、「これらのことを証しする方が言われる。『然り、私はすぐに来る』」(黙示録22,20)という証の言葉である。 

人が、声に出して朗読し、聞くことによって、感覚から受け取るヨハネの黙示の訓練は、新約聖書と固く結ばれ(「神学の河口」№20参照)、善悪の知識から受け取る聖霊の2つの霊性と連動してキリスト者を養成する。そこで天使はまた、ヨハネに言った。「この書の預言の言葉を、秘密にしておいてはいけない。時が迫っているからである」(黙示録22,10)。ヨハネの黙示の言葉がキリスト者を訓練することを体験し、それを広めていかなくてはならない。キリスト者は、この訓練によって、「不正を行う者はさらに不正を行い、汚れた者はさらに汚れた者となれ。正しい者はさらに正しいことを行い、聖なる者はさらに聖なる者となれ」(黙示録22,11)という言葉が、「神の計画」と「蛇」の情報(偶発的情報)をより明確に区別していくことであると悟ることができる。ヨハネの黙示にキリスト者を訓練する力があることを、世に伝えなければならない。 

第7の「幸い」は、「命の木にあずかる権利を与えられ、門を通って都に入ることができるように、自分の衣を洗い清める者は幸いである」(黙示録22,14)と言う。この「幸い」は、ヨハネの黙示の訓練者を聖霊の2つの霊性を受け取ることへと招いている。それは、「自分の衣を洗い清める者の幸い」を、知識でも受け取ることである。命の木にあずかる権利を与えられた者は、キリストの聖体を拝領する。「門を通って都に入ることができるように」とは、キリストの聖体の前に留まる者の善悪の知識が、キリストの聖体を通って「奥の部屋」に入ることができることを示している。「あなたが祈るときは、奥の部屋に入って戸を閉め、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる」(マタイ6,6)と言ったイエスの言葉は、御父からこの報いを受け取った者によって、証しされるのである。 

つづく 

2020年12月27日 聖家族の祝日を使徒ヨハネとともに 広島にて
Maria K

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