神学の河口24 

白い衣



ヨハネの黙示の訓練は、そこに描かれているイエスの世界観を、感覚(五感データ)で捉えることに集中することで最大の効果が上がる。そこで、たとえ数行であったとしても、一日の中で折の良いときに、たびたびすることに益がある。ヨハネの黙示によって訓練することは、人の感覚(五感データ)の記憶にイエスの世界観を注ぎ込み、日に何度もそれに親しむことによって、人の無意識の領域、すなわち感覚(五感データ)の記憶に恒常的にイエスの世界観が出現し、内面化することが期待される。この訓練は、五感のどれかに障害を持つ人であれば、他の感覚が補完するように鋭利に働き、イエスの世界観をより強く感覚(五感データ)の記憶に焼き付けるにちがいない。さらに人の無意識の領域にまで降ったイエスの世界観は、そこに置かれている過去の記憶を正確に知識化することを助け、この記憶とつながる善悪の知識の認識を修正するように迫り、「砕かれたかかと」を癒す(神学の河口№21参照)。

さて、「神学の河口」№21で次のように書いたことを思い出していただきたい。ここで、「次回以降で取り扱う」と書いた内容を振り返り、ヨハネの黙示の訓練と聖霊の2つの霊性による養成、ミサに与かることの大切さを確認したいと思う。「『また私は、イエスの証しと神の言葉のゆえに首をはねられた者たちの魂を見た。この者たちは、あの獣も獣の像も拝まず、額や手に刻印を受けなかった。彼らは生き返り、キリストと共に千年の間支配した。その他の死者は、千年が終わるまで生き返らなかった。これが第一の復活である』(黙示録20,4~5)。『これが第一の復活である』という言葉は、この文全体にかかり、そこに神の救いの構造があることを示している。この構造は、ミサに深く関わる聖霊の2つの霊性に与かることによって、はっきりと知ることができる。その内容については、次回以降で取り扱う。」

ここで、「イエスの証し」は、イエスの世界観を与えるヨハネの黙示の訓練を指す。「神の言葉のゆえに」とは、「神の計画」を悟らせる聖霊の2つの霊性による養成を指す。「首をはねられた者たち」とは、善悪の知識が「神の計画」と結ばれ、自由な意志が神の言葉「あれ」に引き寄せられ、まるで首をはねられ考えることができない者のようになって、イエスの霊とともに意思決定し活動する者たちのことである。この者たちは、「神の言葉のゆえに、また、自分たちが立てた証しのゆえに殺された人々」(黙示録6,9)のことではない。ヨハネの黙示において、これら2種類の人々は書き分けられている。このことについての考察を文末に参考として置く。

常にヨハネの黙示の訓練と聖霊の2つの霊性の養成に与かる人々は、個々の犠牲を払ってミサに向かう日常を生きる過程で遭遇するさまざまな出来事を、イエスの霊とともに協働することを望み、その瞬間を逃さないように努力するようになる。ミサは、最後の派遣の祝福とともに、次のミサに向かっている。ミサとミサをつなぐこの流れに意識的に身を置き、いつもイエスの霊と協働しようと望むこれらの人々には、あの獣や獣の像を拝み、額や手に刻印を受ける機会はない。

「彼らは生き返り、キリストと共に千年の間支配した。その他の死者は、千年が終わるまで生き返らなかった。これが第一の復活である」のフレーズにある「生き返り」とは、白い衣を身にまとい、死を通って第一の復活に与かることである。「キリスト」は、ここではキリストの聖体を指している。「千年」とは、天上の祭壇とつながる地上の祭壇で捧げられるミサの時間であり、宣教とともに地球上に普遍的に広がっていく。「千年の間支配した」とは、白い衣を身にまとって死を通った者たちが、天上と地上の両方のミサに同席する恵みに与かるということである。

「その他の死者」とは、悪霊になった自由な意思、それと、地上の生活にあまりにも執着していた善悪の知識と結ばれていたために、死んで肉体とともに善悪の知識や感覚(五感データ)の記憶を失った後もこの世に留まり、さ迷う自由な意思のことである。「千年が終わるまで生き返らなかった」とは、ミサが終盤にきて、ご聖体が食べられ、救いに飛び出してくるみ言葉「ある」と遭遇するまで、これらの自由な意思は復活に与かることはないということである(「神学の河口」№16参照)。

上記の考察をまとめると、黙示録20,4~5は次のように解釈できる。「また私は、人々の活動に入ってその意志決定と活動を協働することを望むイエスの霊に答えたために、神と自己の無情報の暗闇の中にいる者たちの霊を見た。首をはねられたようになったこの者たちは、イエスの霊と協働していたので、あの獣も獣の像も拝まず、額や手に刻印を受けなかった。彼らは、白い衣を身にまとい、死を通って第一の復活に与かり、キリストの聖体とともに、天上と地上のミサに同席する恵みに与かった。その他の死者、すなわち死んで悪霊になってしまった自由な意思や、地上の生活にあまりにも執着していたために、死んでもこの世に留まり、さ迷う自由な意思たちは、キリスト者によってご聖体が食べられ、神の現存がご聖体から抜け出して、彼らを救って連れて行くまで復活に与かることはない。」

ミサを中心において生きる生活の中で、ヨハネの黙示の訓練に助けられ、聖霊の2つの霊性によく養成されたキリスト者は、やがて、イエスの霊と協働できる瞬間を逃さないようになっていく。こうして、彼らの自由な意志は、いつも人の存在を支えるみ言葉「あれ」とともにいるようになる。いつの日か彼らに死が訪れ、み言葉「あれ」が塵に帰る人の体から抜け出て、御父のもとに帰るときも、彼らの自由な意志は、これまでと同じように、「あれ」というみ言葉に引き寄せられ、その後についていくのである。彼らは、白い衣を身にまとい、なつめやしの枝を手に持って、玉座と小羊の前に立つ数えきれぬほどの大群衆に加わる(黙示録7,9参照)。

彼らは、個々の犠牲を払い、今も時には迫害を伴うような大きな苦難をくぐり抜け、ミサに集まり、み言葉とキリストの聖体によって自身を洗って生きてきた。神は、彼ら一人一人を知っている。「すると、長老の一人が私に問いかけた。『この白い衣を身にまとった者たちは誰か。またどこから来たのか。』そこで私が、『私の主よ、それはあなたがご存じです』と答えると、長老は言った。『この人たちは大きな苦難をくぐり抜け、その衣を小羊の血で洗って白くしたのである』」(黙示録7,13~14)。

「第一の復活」には、神の救いの構造がある。構造とは、それを形作る諸要素の関係をいう。ヨハネの黙示の訓練、聖霊の2つの霊性による養成、ミサに与かることは、それぞれが構造を持っている。これらが要素として、さらに救いの構造をつくっている。キリスト者は、一人一人が、その名のゆえに、この救いの構造を担う部分になるべき者たちである。そして次の言葉が実現する。「それゆえ、彼らは神の玉座の前にいて昼も夜も神殿で神に仕える。玉座におられる方が、彼らの上に幕屋を張る。彼らは、もはや飢えることも渇くこともなく、太陽もどのような暑さも彼らを打つことはない。 玉座の中央におられる小羊が彼らの牧者となり命の水の泉へと導き、神が彼らの目から涙をことごとく拭ってくださるからである」(黙示録7,15~17)。


【参考】

「イエスの証しと神の言葉のゆえに首をはねられた者たち」(黙示録20,4)と、「神の言葉のゆえに、また、自分たちが立てた証しのゆえに殺された人々」(黙示録6,9)との違いを明らかにするために、それぞれが、ヨハネの黙示の中でどのように描かれているかを考察する。まず、「神の言葉のゆえに、また、自分たちが立てた証しのゆえに殺された人々」が登場する箇所は以下のとおりである。

「小羊が第五の封印を解いたとき、私は、神の言葉のゆえに、また、自分たちが立てた証しのゆえに殺された人々の魂を、祭壇の下に見た。彼らは大声でこう叫んだ。『聖なるまことの主よ、あなたはいつまで裁きを行わず、地に住む者に私たちの血の復讐をなさらないのですか。』すると、彼らの一人一人に白い衣が与えられ、それから、『あなたがたと同じように殺されようとしているきょうだいであり、同じ僕である者の数が満ちるまで、もうしばらくの間、休んでいるように』と告げられた」(黙示録6,9~11)。ここで、「白い衣」は、「神の言葉のゆえに、また、自分たちが立てた証しのゆえに殺された人々」への報いとして、「与えられ」と受動的に表現されていることに注目する。

また、345節に次のように書かれている。「サルディスには、僅かながら自分の衣を汚さなかった者たちがいる。彼らは、白い衣を着て私と共に歩む。そうするにふさわしい者たちだからである。勝利を得る者は、このように白い衣を着せられる。そして私は、その名を決して命の書から消すことはなく、その名を私の父と天使たちの前で公に言い表す」(黙示録3,4~5)。ここで、「自分の衣を汚さなかった者たち」とは、「自分たちが立てた証し」を全うして死んだ者たちのことを示唆している。また、「その名を私の父と天使たちの前で公に言い表す」と書かれた表現と同様の表現が、マタイ10:32とルカ12:8で使われており、両福音書のこの箇所を見ると、イエスのこの言葉は、体を殺してもそれ以上何もできない者を恐れないようにとの教え(マタイ10,28、ルカ12,4参照)の文脈で言われている。このことからも、「自分の衣を汚さなかった者たち」が「自分たちが立てた証しのゆえに殺された人々」のことであると分かる。ここでも、白い衣は、「着せられる」と受動的に表現されている。

彼らは、「今、私は心騒ぐ。何と言おうか。『父よ、私をこの時から救ってください』と言おうか。しかし、私はまさにこの時のために来たのだ」(ヨハネ12,27)と言われたイエスの決心を共有したのであり、「父よ、御名の栄光を現してください」(ヨハネ12,28)というイエスの願いに導かれたのである。彼らは、「父よ、できることなら、この杯を私から過ぎ去らせてください。しかし、私の望むようにではなく、御心のままに」(マタイ26,39、マルコ14,36、ルカ22,42)というイエスの御父への祈りに向かった。彼らは、「白い衣を着て私と共に歩む。そうするにふさわしい者たち」だったのである。

これらの事から、「自分たちが立てた証しのゆえに殺された」とは、イエスが次のように語った言葉に根拠がある。「私を憎む者は、私の父をも憎む。誰も行ったことのない業を、私が彼らの間で行わなかったなら、彼らに罪はなかったであろう。だが今は、その業を見て、私と私の父を憎んでいる。しかし、それは、『人々は理由もなく、私を憎んだ』と、彼らの律法に書いてある言葉が実現するためである」(ヨハネ15,23~25)。ゆえに、ここで言われている「自分たちが立てた証しのゆえに」とは、つきつめれば、御父と御子の証しのためにという意味である。

一方、「イエスの証しと神の言葉のゆえに首をはねられた者たち」(黙示録20,4)の「首をはねられた」原因となった「証し」は、「イエスの証し」である。この証しは、「神学の河口」でこれまで考察してきたように、人となった神であるイエスが、この世にもたらした神の国の世界観である。著者であるヨハネ自身が「ヨハネは、神の言葉とイエス・キリストの証し、すなわち、自分が見たすべてを証しした」(黙示録1:2)、「私は、神の言葉とイエスの証しのゆえに、パトモスと呼ばれる島にいた」(黙示録1:9)と言っていることから、「イエスの証し」、すなわち神の国の世界観は、イエスがしたように、生きて証しするものである。

また、次のラオディキアにある教会の天使への手紙にあるように、生きている者には、生温い行いを改め、金や薬を買うのと同じように、「白い衣」も自発的に買い、身にまとうように言われている。「私はあなたの行いを知っている。あなたは、冷たくもなく熱くもない。むしろ、冷たいか熱いかであってほしい。 熱くも冷たくもなく、生温いので、私はあなたを口から吐き出そう。あなたは、『私は裕福で、満ち足りており、何一つ必要な物はない』と言っているが、自分が惨めな者、哀れな者、貧しい者、目の見えない者、裸の者であることが分かっていない。そこで、あなたに勧める。豊かになるように、火で精錬された金を私から買うがよい。自分の裸の恥をさらさないように、身にまとう白い衣を買い、また、見えるようになるために目に塗る薬を買うがよい。」(黙示録3:15 ~18)。

以上の考察から、「イエスの証しと神の言葉のゆえに首をはねられた者たち」は、祭壇の下で休んでいるように言われた「神の言葉のゆえに、また、自分たちが立てた証しのゆえに殺された人々」ではない。「彼らはあらゆる国民、部族、民族、言葉の違う民から成り、白い衣を身にまとい、なつめやしの枝を手に持って、玉座と小羊の前に立っていた」(黙示録7,9)数えきれぬほどの大群衆である。

つづく

20213月 広島にて

Maria K

コメント

人気の投稿