神学の河口21 福音記者ヨハネの挑戦(4) ヨハネの黙示は、「神の計画」を感覚で受け取るための訓練の書である。そのために内容を把握していることは、言葉の持つイメージを感覚に入りやすくさせる。前回、黙示録を3つの部分に分けて、第一部、第二部について扱った。そこで、続けて第三部から、その要点を考察し、この訓練が目指すところもはっきりさせておきたい。 「また、天に大きなしるしが現れた。一人の女が太陽を身にまとい、月を足の下にし、頭には十二の星の冠をかぶっていた」(黙示録12,1)。前回考察したように、この「天」は、聖霊によってもたらされた「天」である。「一人の女が太陽を身にまとい」の「太陽」は、「顔は強く照り輝く太陽のようであった」(黙示録1,16)と書かれた方を指し、彼女はこの方の栄光を身にまとっているのである。この文は、天使がマリアに告げた「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを覆う」(ルカ1,35)という言葉と符合する。そして、イエスが、ご自分の母に、「女よ」と語りかけたことを思い出すと(ヨハネ2,4、19,26参照)、この「一人の女」から、「イエスの母マリア」(使徒言行録1,14参照)のイメージが浮かんでくる。 この女性は、この世の夜を照らす「月」を足の下にしている。「月」が地上の事柄を指すと捉えれば、「月を足の下にし」という言葉は、「天」に現れた彼女が、未だ地上の事柄に関わっていることを示唆している。頭にかぶっている冠の「十二の星」の「星」は、天使を指している(黙示録1,20参照)。これは、「都には高い大きな城壁と十二の門があり、それらの門には十二人の天使がいて、名が刻みつけてあった。イスラエルの子らの十二部族の名であった」(黙示録21,12)と書かれている「十二の門の天使」である。この天使たちは、悪霊を麦と毒麦に分けて自由な意思を救っているのである( 「神学の河口」№16 参照)。そこで、この「十二の星」の冠は、神の救いの業が継続されていることの象徴である。実際にイエスの母マリアは、神の独り子と親子の関係になることを承諾し(ルカ1,26~38参照)、救い主の母となった。さらに十字架上のイエスの指示に従って、「愛する弟子」と親子の関係を結ぶことを承諾した(ヨハネ19,26~27参照)。これによって「愛する弟子」、すなわち使徒は、救い主の母としての全権を継
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神学の河口20 福音記者ヨハネの挑戦(3) 「この預言の言葉を朗読する者と、これを聞いて中に記されたことを守る者たちは、幸いだ。時が迫っているからである」(黙示録1,3)。 ヨハネの黙示は、キリスト者に「神の計画」を身につけさせる訓練の書である。それは、声に出して朗読されて初めて訓練の書として生きてくる。人々が集まってするときも、一人でするときも、ヨハネの黙示を朗読すること自体が、人を訓練する。声に出して朗読し、それを聞いて 「神の計画」を身に付け るのである。これが「これを聞いて中に記されたことを守る者たち」の意である。ヨハネの黙示には、朗読し聞く訓練をする者の「幸い」が貫いてある。この「幸い」は、言葉で書かれた黙示を、感覚でも受け取ることである。言葉を感覚でも受け取るという訓練によって、これまで「神学の河口」で考察してきたように、「神の計画」が置かれている五感データの記憶に、「神の計画」が繰り返し入り、これが知識であることの印象が明確になる。それは、五感データの記憶とつながっている善悪の知識が、「神の計画」と、情報化されすでにこの段階で知識化が起こっている「蛇」の情報(偶発的情報)とを、区別しやすくなるということである。さらに、繰り返すことで、五感データの記憶に強く刻まれた「神の計画」を、善悪の知識はイメージしやすくなる。 「エルサレムには天下のあらゆる国出身の信仰のあつい人々が住んでいたが、この物音に大勢の人が集まって来た。そして、誰もが、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられた」(使徒言行録 2,5~6 )と書かれているように、聖霊が降臨したことで、あらゆる人々が「神の計画」に触れる機会に恵まれ、「神の計画」に知らずに向かうようになる。イエスが「洗礼者ヨハネの時から今に至るまで、天の国は激しく攻められており、激しく攻める者がこれを奪い取っている」(マタイ 11,12 )と言ったように、それは、洗礼者ヨハネの時から始まっていたが、聖霊が降臨して決定的になった。「私は地から上げられるとき、すべての人を自分のもとに引き寄せよう」(ヨハネ 12,32 )と言ったイエスの言葉が実現したからである。キリスト者は「神の計画」を身につけて、善に引き寄せられた世の中の人々の歩みを助けるように働かねばならない。「時が迫っている」とはこのことである。
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神学の河口19 福音記者ヨハネの挑戦(2) ヨハネ福音記者は、迫害の中で、「私の教会」(マタイ16,18参照)の重要機密であるキリストの司祭職の特徴を、「花嫁」と「イエスの愛しておられた弟子」の言葉の中に隠した。これらの言葉は、女性をイメージさせることから、これを隠すために好都合であった。司祭職の主たる職務が、イエスが制定したキリストの聖体が生まれるために、聖霊の伴侶となる役割を受け取ることであるから、そう遠くない表現だったと言える。ヨハネ福音記者は、イエスがご自分を花婿にたとえ、弟子たちをその婚宴に招かれた友人、母、兄弟姉妹として見ていたことに注目した。そこで、イエスが一度も使わなかった「花嫁」という言葉を、自分の書いた福音書だけに載せることで、イエスが命をかけて準備した、聖霊と「私の教会」にとって、なくてはならない司祭職に、キリスト者の注意を向けようとした。 ヨハネ福音記者は、イエスの初めの弟子たちが、洗礼者ヨハネの弟子であったことを伝えている(ヨハネ 1,35~37 参照)。彼らは、洗礼者ヨハネに促されて、自発的にイエスについて行ったのである。やがて自分のもとに残っている弟子たちから、みんながイエスのところに行くようになったことを聞いた洗礼者ヨハネは、彼らに言った。「人は、天から与えられなければ、何も受けることはできない。『私はメシアではなく、あの方の前に遣わされた者だ』と私が言ったことを、まさにあなたがたが証ししてくれる。花嫁を迎えるのは花婿だ。花婿の介添え人は立って耳を傾け、花婿の声を聞いて大いに喜ぶ。だから、私は喜びで満たされている。あの方は必ず栄え、私は衰える」(ヨハネ 3,27~30 )。ここで洗礼者ヨハネが「花嫁」と言ったのは、イエスの弟子になった者たちを指していたのである。 ヨハネ福音書では、「花嫁」が 1 度、「花婿」が 4 度出てくる。ヨハネの黙示録には、反対に「花婿」が 1 度「花嫁」とともに、また「花嫁」が単独で 4 度出てくる。この数の符合は、ヨハネ福音書と黙示録の関係に注目させる。黙示録に「花嫁」とともに 1 度出てくる「花婿」が、次のように、イエスの受難と死をイメージしていると捉えると、そこでともに並べられた「花嫁」は、散らされ、殉教した弟子たちを想像させる。「灯の明かりも、もはやお前のうちには輝かない。花婿や花嫁の声も、も
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神学の河口18 福音記者ヨハネの挑戦(1) ベタニアのマリアは、ヨハネ福音書の中では、変わった女性として描かれている。カナの婚礼の場面でのイエスの母、ヤコブの井戸でのサマリアの女、ベタニアのマルタ、そして、マグダラのマリア、これらの女性たちは、それぞれ個性は違っていても、イエスと対峙しながら、イエスに感化され、隣人にも向かい、「神と人と隣人」の関係をつくるようになっていくのである。ベタニアのマルタは、イエスに導かれて、しまいには使徒ペトロと同じ信仰告白をするところまで高められた*1。マルタはペトロと同じように、御父とつながったのである*2。しかし、ベタニアのマリアは、違っていた。 *1「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております」(ヨハネ11,27) *2「バルヨナ・シモン、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、天におられる私の父である」(マタイ16,17) まず、ルカ福音書の場面から見ていく。いろいろなもてなしのためせわしく立ち働いていたマルタが、イエスに、「主よ、姉妹は私だけにおもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください」(ルカ 10,40 )とダイレクトに言えたことは、すでに二人の間に信頼関係ができていたことを示している。「そばに立って言った」(ルカ 10,40 )という描写からもそれがよくわかる。また、イエスが「マルタ、マルタ」と彼女の名を2度続けて呼びかけているところからも、それが察せられる。イエスはマルタに、「マルタ、マルタ、あなたはいろいろなことに気を遣い、思い煩っている。しかし、必要なことは一つだけである。マリアは良いほうを選んだ。それを取り上げてはならない」(ルカ 10,41~42 )と言った。イエスは、このときマルタにただ一つ必要なことは、マリアの隣人となって、彼女の選択を尊重することだと助言したのである。 このベタニアでの出来事の直前には、「良いサマリア人」のたとえが置かれている(ルカ 10,25~37 参照)。ここでも、イエスと律法の専門家とのやり取りに、マルタとのやり取りと同じようなテーマを見つけることができる。一つは、彼らが、イエスとある程度良い関係の中で、イエスから会話を引き出していること。そして、イエスが彼らに、彼
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神学の河口17 キリストの聖体(3) 復活したイエスは、ティベリアス湖畔に現れて、ペトロに「私を愛しているか」と3回尋ねた(ヨハネ21,15~19参照)。この場面で、イエスが、開口一番「ヨハネの子シモン」と呼び、ご自分の付けた名で呼ばなかったのは、彼の自由な意思が、復活したイエスの意志にとらわれることなく、自発性を持って答えるためであった。次に「あなたはこの人たち以上に私を愛しているか」と続けたのは、イエスが受難の前に、「鶏が鳴く前に、あなたは三度、私を知らないと言うだろう」と予告したように、イエスの名と弟子であることを否認したペトロが、イエスが「私」にたとえた神の計画に、自発性を持って従うかどうか確かめたのである。愛は、人が神の計画に向かう自由な意思の自発性を意味する。ペトロは、「はい、主よ、私があなたを愛していることは、あなたがご存じです」と答えている。これは、「はい、主よ、私が自発性を持って神の計画に向いていることは、あなたがご存じです」の意である。そこでイエスは、「私の小羊を飼いなさい」と命じた。 聖霊降臨によって、再び生きるようになったイエスのみ言葉とキリストの聖体は、まさに羊を「世話」し、「飼う」ために必要な水と食べ物である。聖霊は、キリスト者が自発性を持って、み言葉を聞き、キリストの聖体を拝領するためにミサに来るのを待つ。自由な意思の決定を知る必要のない神にとって( 「神学の河口」№5 参照)、神の計画に向く自発性だけが、愛であり、愛は、神の憐みに対する人の唯一の応答である。 使徒パウロが語る「信仰、希望、愛」とは、「道、真理、命」であるイエスの霊と交わり、善悪の知識が神の計画があることを知って、自由な意思とこれに向かう時、発現する自発性である。人が自発性を持って神の計画があることを認識にすることが信仰であり、この自発性は、自らの希望を神の真理に向ける。そして、この自発性こそが、人を神の計画の只中に飛び込ませる愛そのものである。神は、自由な意思が自発性を持って神の計画に向かうことをひたすらに望む。神は人から「信仰、希望、愛」を受け取るのである。そこでパウロは、「それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残ります。その中で最も大いなるものは、愛です」(1コリント13,13)と書いた。神が受け取ったものは、いつまでも残る
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神学の河口16 キリストの聖体(2) 神は、初めて殺人の罪を犯したカインと、それによって初めて死んだ人となったアベルについて、またこの人々と同じ運命を辿ることになる多くの人々の必要のために、神の計画に第2の救いの計画を加えた( 「神学の河口」№ 15 参照)。カインは、神にとって、「産めよ、増えよ、地に満ちて、これを従わせよ。海の魚、空の鳥、地を這うあらゆる生き物を治めよ」(創世記 1,28 )という言葉を実現する初子であった。「産めよ、増えよ」と言った神の意に反して、神が初めて罪と呼ぶことになった殺人を犯した彼は、神が置いた「敵意」(創世記 3,15 参照)によって、「私の過ちは大きく、背負いきれません」と言うことができた。神は、この言葉によって彼を赦した。そして、カインの犯した罪と、カイン自身が宣言した彼の負うべき罰を、次のように神ご自身が文字通りに引き受けた( 「神学の河口」№ 14 参照)。 カインは、「あなたは今日、私をこの土地から追放されたので、あなたの前から身を隠し、私は地上をさまよい、さすらう者となり、私を見つける者は誰であれ、私を殺すでしょう」(創世記 4,14 )と言った。この言葉を、神の独り子であるイエスが、天の父のもとから降り、彼自身が「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない」(マタイ 8,20 )と言った者となり、ついに見つけられて十字架刑によって殺されることで引き受けたのである。そして、神が自由に死に(ヨハネ 10,17~18 参照)、黄泉に降ることによって、それまでに死んだ人の自由な意思を救った。そこで、十字架の死の後には、空の墓のエピソードが続く。 祭司長たちとファリサイ派の人々が、墓からイエスの遺体が盗まれるかもしれないと心配していたように(マタイ 27,62~66 参照)、弟子たちもまた、主が復活することよりも、主の遺体が墓から取り去られることを心配していたことが、わずかな福音書の記述から察せられる(マタイ 27,61 、ヨハネ 20,1~2 参照)。そこで、ヨハネ福音書記者も、空の墓の場面の終わりに、「イエスが死者の中から必ず復活されることを記した聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである」(ヨハネ 20,9 )と書いた。しかし福音書記者は、その前に、「先に墓に着いたもう一人
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神学の河口15 キリストの聖体(1) 御父の意志を言葉にして成し遂げる御子は、御父にとって真の助け手である。そこで神は、人を、御子のイメージを持った神の助け手として創造した。御父と御子の分かつことのできない絆を、聖霊と人の間に与えるためである。それは、いつの日か、聖霊と人と隣人の関係に、三位一体の神の一体性を与えるためであった。真の神の似姿とは、聖霊と個々人の間に、御父と御子の絆を与えられ、人が神のかたちに似た者となること、さらに、「聖霊と人と隣人」が、三位一体の神の姿のように、完全に一体になることを言う( 「神学の河口」№4 参照)。そこで、人がこの2つの状態に達していく過程が、初めから神の計画にあった。 神は、神の知識によって結ばれた御父と御子と聖霊の自由な意思が、完全に一体になることを望みつつ、これを常に成し遂げている唯一の神である。神は、御父の意志が御子によって言葉と行為に成って、それを「良し」とする聖霊の認識に至る一連の神の動きによって、天地万物と人を創造した(創世記 1,3~31 参照)。神は、唯一であり全能であるゆえに必要を持たない。そこで思考も判断も記憶もしない。一方人は、自分の意志が言葉と行為によって成し遂げられ、成し遂げたことを認識にするという一連の動きを、善悪の知識によって一人で行う。善悪の知識は、視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚の五感データの記憶とつながり、持った知識によって思考し、判断したことを確認し、認識にこぎつける( 「神学の河口」№ 4 参照)。 イエスは、「父が私の内におられ、私が父の内にいることを、あなたがたは知り、また悟るだろう」(ヨハネ 10,38 )と言った。ここで「知り」、「悟る」と言っているところから、キリスト者は、「父が私の内におられ、私が父の内にいること」を、知識として受け取ることができる。この意味は、御父と御子が互いの知識を、すなわち神の知識を、完全に共有しているということである。そして、「かの日には、私が父の内におり、あなたがたが私の内におり、私があなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる」(ヨハネ 14,20 )と言ったように、「かの日」、すなわち聖霊が降臨する日には、キリスト者を神の知識に迎え入れ、神の知識を共有することが、神の計画であったことを、キリスト者は分かることができる。