米国の政治学者サミュエル・ハンティントンによると、20世紀の世界文明という視点の中で、日本文明は、独立した固有の文明として分類されている。私の生まれ育った日本の歴史は、ギリシア文化もゲルマン民族の大移動も、イスラム文化の影響も全く経験していない。一方、キリスト教の歴史は、これらの出来事と溶け合って発展した西洋の歴史そのものである。そこで聖書の解釈は、その影響を大きく受けてきた。しかし、聖書の成り立ちは西洋の歴史そのものではない。だから日本人である私が、これらの歴史をいろいろ学びながらも、聖書を読んでその教えを理解しようとするとき、今日までヨーロッパの歴史が捉え、育んできたものをすべて共有できるわけではない。その一方で、思いがけない発見と遭遇するかもしれない。このような状況の中で、ヨハネの黙示がイエス・キリストの世界観を表していると知ったのは、最近のことだ。私はこれを知るやいなや、「この預言の言葉を朗読する者と、これを聞いて中に記されたことを守る者たちは、幸いだ。時が迫っているからである」(黙示録1:3)という勧めに従った。毎日この預言の言葉を声に出して読み、その声を聞いて、「中に記されたこと」を自分の記憶に保持する幸いな者になりたいと思ったからである。 2021年8月26日 Maria K
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神学の河口28 「私は道であり 真理であり 命である」 「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」(ヨハネ14,6)と言ったイエスは、聖霊とともに生きるキリスト者のために、み言葉によって生まれるキリストの聖体を制定し、その「道」を具体的に残した。そして、聖霊は、「イエス・キリストの黙示」(黙示録1,1)であるヨハネの黙示によって、キリスト者がイエス・キリストの世界観を感覚で身に着けるように導いた。この世界観は、「あらゆる真理に導いてくれる」(ヨハネ16,13)聖霊の2つの霊性とつながり、ミサの中でキリストの聖体を拝領することで、認識になる。そこでヨハネの黙示を朗読する段階では、その言葉が感覚に入ってくる声に集中することが最重要である。 人にとって「真理」とは、御父の意志がみ言葉となった「神の計画」である。それは「命」に向かっている。この「命」は、「人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたがたの内に命はない」(ヨハネ6,53)とイエスが言ったように、み言葉によって生まれるキリストの聖体の内にある。イエスは、「私の肉を食べ、私の血を飲む者は、私の内にとどまり、私もまたその人の内にとどまる」(ヨハネ6,56)と言うことによって、この「命」が、キリストの聖体によって、キリスト者に具体的に与えられることを保証した。さらに、この言葉は、イエスが次のように説明した通り、キリストの聖体とこれを拝領する者の間に、御父と御子の絆があることをも保証している。「かの日には、私が父の内におり、あなたがたが私の内におり、私があなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる」(ヨハネ14,20)。 キリスト者は、その耳で聞いたみ言葉によって生まれるキリストの聖体を、自分の手で受け、触れ、見て、匂いを感じて食べることによって、五感全部で受け取る必要がある。復活したイエスが、弟子たちに次のように言った通り、すべてのキリスト者は、触ってよく見て、キリストの聖体を食べたことを認識にしなければならない。この認識によって、信じない者ではなく、信じる者になるためである。「私の手と足を見なさい。まさしく私だ。触ってよく見なさい。霊には肉も骨もないが、あなたがたが見ているとおり、私にはあるのだ」(ルカ24,39)、「あなたの指をここに当てて、私の手
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神学の河口 27 「神の子羊の食卓に招かれたものは幸い」 日本のカトリック教会 では、聖体拝領直前の信仰告白の言葉として、使徒ペトロの信仰告白の言葉から取られたもの * 1 を唱えている。一方ローマ規範版のミサ典礼書では、百人隊長の信仰告白の言葉 * 2 から取られており、日本以外のほとんどの国で、これが唱えられていると聞いている。このため以前から、日本で使われている信仰告白の言葉を、ローマ規範版に合わせるべきとの意見もあるようだ。 第二バチカン公会議の後、日本では、典礼文を日本語にするとき、この箇所で工夫が必要だったと聞いたことがある。司祭が「神の子羊の食卓に招かれた者は幸い」と言った後に、会衆が百人隊長の信仰告白の言葉で答えるようにしたら、日本の信者たちは遠慮して、ご聖体を拝領しないで帰ってしまうということが、懸念されたようである。 *1「主よ、あなたは神の子キリスト永遠の命の糧、あなたをおいて誰のところに行きましょう」 *2「主よ、私はあなたをわが家にお迎えできるような者ではありません。ただ、お言葉をください。そうすれば、私の子は癒やされます。」(マタイ8,8) 日本人は、「本音」と「建て前」を使い分けることで知られている。しかし、その根底には、ある種の矛盾に対する文化的な潔癖さを持つ日本人の姿があると私は思う。この姿を鑑みると、聖体拝領前に、百人隊長のように「私はあなたをわが家にお迎えできるような者ではありません。ただ、お言葉だけをください。そうすれば私の魂は癒されます」と宣言した言葉に反して、聖体を拝領しに出て行くことに、日本人の多くは矛盾を感じるのではないか。そして、公の場で言動に矛盾があることを要求されることに、日本人が嫌悪感を持つことが懸念されたのではないだろうか。それで日本人が納得して唱えられるものに変えることを願ったのではないかと私は思っている。 そして、私は、少なくとも日本においては、ミサ典礼文における現在の信仰告白の言葉が、引き続き維持されることを強く望んでいる。それは、単に文化的背景や当時の宣教上の事情といったことだけではなく、以下で述べるように、神学的考察においても、「神の子羊の食卓に招かれたものは幸い」という司祭の言葉に導
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神学の河口 26 ぶどうの枝 (2) 「父が私を愛されたように、私もあなたがたを愛した。私の愛にとどまりなさい。私が父の戒めを守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、私の戒めを守るなら、私の愛にとどまっていることになる。これらのことを話したのは、私の喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。私があなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これが私の戒めである。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。私の命じることを行うならば、あなたがたは私の友である」(ヨハネ 15,9~14 )。 イエスが語る愛の源は、御父の憐みである。御父の憐みは見ることができない。御父の憐みは、それをみ言葉が表現して初めてその姿を現し、御父が憐みの神であることが明らかになる。この神の憐みは、目的のために具体的な手段に向かい、その手段は愛となる。ゆえに愛は見ることができる。神は言われた。「我々のかたちに、我々の姿に人を造ろう。そして、海の魚、空の鳥、家畜、地のあらゆるもの、地を這うあらゆるものを治めさせよう」(創世記 1,26 )。このように神は、ご自身が創造した世界への憐れみを言葉で表現し、神が憐みの神であることを明らかにした。この神の憐みは、神が創造したばかりの被造物に治める者を与えるために、「人」を創造すると言う具体的手段に向かった。神である主は、土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き込んだ。こうして形づくられた人は、神とともにいて、神の憐みに具体的に答える愛となった。被造界は、神によってそこを耕し守る人を得て、命の循環が始まった(創世記 2,4~15 参照)。「神は、造ったすべてのものを御覧になった。それは極めて良かった」(創世記 1,31 )と書かれている。 イエスは御父の全権を担って来た神であったが、人となって、愛である人として、福音を述べ伝えた。「父が私を愛されたように」とは、そのために、常に御父に祈る御子の必要を、御父が満たし続けたことである。イエスが「父は私よりも偉大な方だからである」(ヨハネ 14,28 )と言ったとおりである。「私もあなたがたを愛した」とは、イエスが、弟子たちに憐みの神である御父の名を知らせ、イエスと同じ父を持つ兄弟姉妹としての資格を与えたことである(マタイ 12,50 参照)。
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神学の河口 25 ぶどうの枝 (1) 「私はまことのぶどうの木、私の父は農夫である。私につながっている枝で実を結ばないものはみな、父が取り除き、実を結ぶものはみな、もっと豊かに実を結ぶように手入れをなさる」(ヨハネ 15,1~2 )。 「私はまことのぶどうの木、私の父は農夫である」というイエスの言葉には、人の必要を満たし続ける憐み深い御父の意志を、神の知識によって完全に共有する御子の、暖かい愛に満ちた信頼の気持ちがあふれ出ている。「私につながっている枝」とは、キリスト者の感覚(五感データ)の記憶に、ヨハネの黙示の訓練によってイエスの世界観が出現し、聖霊の2つの霊性の養成とミサに与かるキリスト者の状態を指している。「私につながっている枝で実を結ばないもの」とは、このようにイエスと「つながっている」ことに努力していても、弱い人である一人一人のキリスト者が、「蛇」の情報(偶発的情報)を区別することなく自分の知識として取り込み、抱えた矛盾である。 そこで、「みな、父が取り除き」とは、神が善悪の知識の中に置いた「敵意」(創世記 3,15 参照)が、有機的に働き出すことを言っているのである。十字架上でイエスが、神の置いた「敵意」そのものになって、一緒に十字架につけられた犯罪人の自由な意思を、「神の計画」に向けて取り戻したように( 「神学の河口」№ 14 参照)、この神の置いた「敵意」の働きによって、キリスト者は、自分が矛盾を持ったことに気づく。そして、即座に自分が陥った危険を認め、迅速に神に向き直り、矛盾を解くために、イエスの霊と協働することを願い求める。「実を結ぶもの」とは、こうして自発的に「神の計画」に向いたキリスト者の状態を指している。 「実を結ぶものはみな、もっと豊かに実を結ぶように手入れをなさる」とは、自発的に「神の計画」に向いたキリスト者に、御父が、日常的な小さなことから、頻繁にイエスの霊と協働する体験をさせることである。御父は、聖霊の 2 つの霊性の養成の場で、神の無情報の暗闇に入ったキリスト者の自由な意思に報いてくださるように、このときも、イエスの霊の示す「神の計画」に、キリスト者の善悪の知識が、軛を負うようにつながったことを見て、自由な意思が「あれ」と言うみ言葉に引き寄せられるように報いてくださる。このキリスト者は、イエスの霊とともに活動
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神学の河口24 白い衣 ヨハネの黙示の訓練は、そこに描かれているイエスの世界観を、感覚(五感データ)で捉えることに集中することで最大の効果が上がる。そこで、たとえ数行であったとしても、一日の中で折の良いときに、たびたびすることに益がある。ヨハネの黙示によって訓練することは、人の感覚(五感データ)の記憶にイエスの世界観を注ぎ込み、日に何度もそれに親しむことによって、人の無意識の領域、すなわち感覚(五感データ)の記憶に恒常的にイエスの世界観が出現し、内面化することが期待される。この訓練は、五感のどれかに障害を持つ人であれば、他の感覚が補完するように鋭利に働き、イエスの世界観をより強く感覚(五感データ)の記憶に焼き付けるにちがいない。さらに人の無意識の領域にまで降ったイエスの世界観は、そこに置かれている過去の記憶を正確に知識化することを助け、この記憶とつながる善悪の知識の認識を修正するように迫り、「砕かれたかかと」を癒す( 神学の河口№ 21 参照)。 さて、 「神学の河口」№ 21 で次のように書いたことを思い出していただきたい。ここで、「次回以降で取り扱う」と書いた内容を振り返り、ヨハネの黙示の訓練と聖霊の2つの霊性による養成、ミサに与かることの大切さを確認したいと思う。「『また私は、 イエスの証しと神の言葉のゆえに 首をはねられた者たち の魂を見た。この者たちは、あの獣も獣の像も拝まず、額や手に刻印を受けなかった。彼らは生き返り、キリストと共に千年の間支配した。その他の死者は、千年が終わるまで生き返らなかった。これが第一の復活である』 (黙示録 20,4~5 )。『これが第一の復活である』という言葉は、この文全体にかかり、そこに神の救いの構造があることを示している。この構造は、ミサに深く関わる聖霊の2つの霊性に与かることによって、はっきりと知ることができる。その内容については、次回以降で取り扱う。」 ここで、「イエスの証し」は、イエスの世界観を与えるヨハネの黙示の訓練を指す。「神の言葉のゆえに」とは、「神の計画」を悟らせる聖霊の 2 つの霊性による養成を指す。「首をはねられた者たち」とは、善悪の知識が「神の計画」と結ばれ、自由な意志が神の言葉「あれ」に引き寄せられ、まるで首をはねられ考えることができない者のようになって、イエスの霊とともに意思決定し活動
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神学の河口 23 聖霊の霊性と無情報の暗闇 (2021年3月修正版) ご聖体の前で聖霊の霊性によって養成されていることの証しは、その間に起こる無情報の2つの暗闇、神の無情報の暗闇と自己の無情報の暗闇の体験によって確認することができる。それは、人々が普段何かに熱中し、集中している場合とよく似ているが、それと同じではない。人は自分の計画に集中する時、我を忘れていることがある。自己に無情報になっているのである。このとき人の善悪の知識と感覚(五感データ)の記憶は、自分の計画を成し遂げるために連動している。善悪の知識は、感覚(五感データ)の記憶とつながりつつ、善悪の知識の記憶にすでに置かれた知識や認識を使い、推理や判断を繰り返している。善悪の知識は、これらをもとに、自由な意思とつながって、自由な意思に作用し、意志決定に持ち込み、活動にしている。そこで、感覚(五感データ)が捉え続けている情報が無視されがちになるために、自己に無情報になっている状態が起こるのである。一方、聖霊の霊性に与かるとき起こる神と自己の無情報の暗闇は、これとは全く異なる。以下くわしく説明していく。 ご聖体には、「私が命のパンである。私のもとに来る者は決して飢えることがなく、私を信じる者は決して渇くことがない」(ヨハネ 6,35 )、「私は命のパンである」(ヨハネ 6,48 )、「私は、天から降って来た生けるパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。私が与えるパンは、世を生かすために与える私の肉である」(ヨハネ 6,51 )と繰り返し教えたイエスの言葉が、生きている。さらに、聖霊が降臨し、聖体祭儀の中で聖霊の意志が降るご聖体は、人の善悪の知識を捉え養成し、「世を生かす」イエスの宣教と救いの業を、キリスト者と協働して継続するために、人と同一の構造を持つようになったと考えられる。 以下に、ご聖体と人の構造についての考え方を述べるが、ここでいう神の言葉「ある」と「あれ」は、被造物である人間にとって、御父の意志と御子の意志がみ言葉と行為を成し遂げた状態を保ち、聖霊による認識が来るのを待つ状態を示している。 この状態は、人が活動していない時も生きていることと似ている。 「神学の河口」 № 4 で創世記の記述から深く考察したように、「地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いてい
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神学の河口22 ヨハネの黙示と聖霊の2つの霊性 イエスの訓練を直接受けた弟子たちは、イエスとともに過ごし、神が共にいる生活を体験した。そして彼らは、神であり人でもあるイエスの持つ世界観、すなわち神の国の世界観を共有した。弟子たちは、イエスご自身が持っていた神の国の世界観の中で、イエスに訓練されることによって、「神の計画」を知ることに慣れ、それを身に着けていった。そして、「神の計画」と「蛇」の情報(偶発的情報)を少しずつ切り離し、区別するようになった。最後の夕食の席で、弟子たちが「今は、はっきりとお話しになり、少しもたとえを用いられません。あなたがすべてのことをご存じで、誰にも尋ねられる必要がないことが、今、分かりました。これで、あなたが神のもとから来られたと、私たちは信じます」(ヨハネ 16,29~30 )と言えるまでになったのは大きな進歩であった。イエスの訓練は、イエスが「よくよく言っておく。アブラハムが生まれる前から、『私はある。』」(ヨハネ 8,58 )と言った、神の永遠の命の知識に弟子たちを留まらせ、それによって弟子たちは、聖霊の降臨を待ち、その霊性を受け取る共同体になることができた。 使徒言行録には、聖霊が降臨した後、「信じた者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし、財産や持ち物を売っては、必要に応じて、皆がそれを分け合った。そして、毎日ひたすら心を一つにして神殿に集まり、家ではパンを裂き、喜びと真心をもって食事を共にし、神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた。こうして、主は救われる人々を日々仲間に加えてくださったのである」(使徒言行録 2,44~47 )と書かれている。一方で、使徒たちによって多くの不思議な業としるしが行われていたので、この人々に恐れが生じた(使徒言行録 2,43 参照)。それが神への畏敬の念からであったとしても、この「恐れ」は、やがて起こったアナニアと妻のサフィラの事件(使徒言行録 5,1~11 )や、ギリシア語を話すユダヤ人とヘブライ語を話すユダヤ人の間に生じた問題(使徒言行録 6,1 )を、防ぐことはなかった。 ヨハネは、これらの出来事を思いめぐらしながら、自分の共同体の世話をするうちに、聖霊の霊性とつながるすべてのキリスト者に、聖霊降臨に向けてイエスが弟子たちを訓練した神の国の世界観が、どうしても必要で