神学の河口 25
ぶどうの枝 (1)
「私はまことのぶどうの木、私の父は農夫である。私につながっている枝で実を結ばないものはみな、父が取り除き、実を結ぶものはみな、もっと豊かに実を結ぶように手入れをなさる」(ヨハネ15,1~2)。
「私はまことのぶどうの木、私の父は農夫である」というイエスの言葉には、人の必要を満たし続ける憐み深い御父の意志を、神の知識によって完全に共有する御子の、暖かい愛に満ちた信頼の気持ちがあふれ出ている。「私につながっている枝」とは、キリスト者の感覚(五感データ)の記憶に、ヨハネの黙示の訓練によってイエスの世界観が出現し、聖霊の2つの霊性の養成とミサに与かるキリスト者の状態を指している。「私につながっている枝で実を結ばないもの」とは、このようにイエスと「つながっている」ことに努力していても、弱い人である一人一人のキリスト者が、「蛇」の情報(偶発的情報)を区別することなく自分の知識として取り込み、抱えた矛盾である。
そこで、「みな、父が取り除き」とは、神が善悪の知識の中に置いた「敵意」(創世記3,15参照)が、有機的に働き出すことを言っているのである。十字架上でイエスが、神の置いた「敵意」そのものになって、一緒に十字架につけられた犯罪人の自由な意思を、「神の計画」に向けて取り戻したように(「神学の河口」№14参照)、この神の置いた「敵意」の働きによって、キリスト者は、自分が矛盾を持ったことに気づく。そして、即座に自分が陥った危険を認め、迅速に神に向き直り、矛盾を解くために、イエスの霊と協働することを願い求める。「実を結ぶもの」とは、こうして自発的に「神の計画」に向いたキリスト者の状態を指している。
「実を結ぶものはみな、もっと豊かに実を結ぶように手入れをなさる」とは、自発的に「神の計画」に向いたキリスト者に、御父が、日常的な小さなことから、頻繁にイエスの霊と協働する体験をさせることである。御父は、聖霊の2つの霊性の養成の場で、神の無情報の暗闇に入ったキリスト者の自由な意思に報いてくださるように、このときも、イエスの霊の示す「神の計画」に、キリスト者の善悪の知識が、軛を負うようにつながったことを見て、自由な意思が「あれ」と言うみ言葉に引き寄せられるように報いてくださる。このキリスト者は、イエスの霊とともに活動のさ中にいて、神と自己の2つの無情報の暗闇が続いているかのような体験をする(「神学の河口」№23参照)。しかし、感覚(五感データ)の記憶は、聖霊の2つの霊性の養成に与かっているときと同じく、これらの状態から何の影響も受けず、この協働の中でも、起こったことすべてを逐一記憶している。そこで、この人は、イエスの霊とともにするこの体験全体を通して、次々起こる意志決定とその活動を、離れて眺めている者のように受け取る。まるで天使に同伴されて、見たことを証しするヨハネの黙示の著者になったかのようである。こうしてキリスト者は、イエスの霊と協働する中で、「神の計画」を成し遂げる神の仕方を、神である聖霊から直接習い、成し遂げたすべてが、完全に「良し」(創世記1,4~25参照)、「きわめて良かった」(創世記1,31参照)と言える神の認識に触れる体験を積むことができる。
「私が語った言葉によって、あなたがたはすでに清くなっている。私につながっていなさい。私もあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、私につながっていなければ、実を結ぶことができない。私はぶどうの木、あなたがたはその枝である。人が私につながっており、私もその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。私を離れては、あなたがたは何もできないからである。私につながっていない人がいれば、枝のように投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう」(ヨハネ15,3~6)。
「私が語った言葉によって、あなたがたはすでに清くなっている」とは、み言葉が、これを聴く人を清めるということを言っているのである。この「すでに清くなっている」という状態は、ミサに与かって福音を聴き、ご聖体を拝領することによって、現実になる。それは、五感のすべてでイエスご自身を具体的に受け取り、受け取ったことを記憶するからである。この記憶は、「私につながっていなさい。私もあなたがたにつながっている」というイエスの言葉を実感させ認識にする(「神学の河口」№6参照)。次にイエスが、「私を離れては、あなたがたは何もできない」と言っているように、ミサに与かって福音を聴き、ご聖体を拝領することによってイエスと具体的につながったという記憶とその認識なしには、キリスト者は「何もできない」と知ることは、偉大な知恵である。イエスの語る声は、ご自分が、聖霊とキリスト者のために命をかけて成し遂げていく準備を、キリスト者が十全に使うことを懸命に願っているように響く。
「私につながっていない人がいれば、枝のように投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう」というイエスの言葉は、マタイ福音書で、イエスが受難に臨む直前に語った最後のたとえ話(マタイ25,31~46参照)を読むとよく理解できる。イエスの霊の働きと、「蛇」の情報(偶発的情報)の末路が明確に表現されているからである。このたとえには、王と右側の人たち、左側の人たちが出てくる。また、「わたしの父に祝福された人たち」と言う王の言葉によって、王がイエス自身であることが分かる。
イエスである王は、左側にいる人たちに「呪われた者ども、わたしから離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入れ」(マタイ25,41)と命じている。王のこの言葉に、「主よ、いつ私たちは、あなたが飢えたり、渇いたり、よその人であったり、裸であったり、病気であったり、牢におられたりするのを見て、お仕えしなかったでしょうか」(マタイ25,44)と反論した彼らの言葉から、彼らが王であるイエスを知っていたことが分かる。彼らは、創世記の中で神から「あらゆる家畜、あらゆる野の獣の中で、最も呪われる」(創世記3,14)と言われた「蛇」の情報(偶発的情報)であった。それゆえ彼らは、これを言ったみ言葉であるイエスをよく知っているのである。この「蛇」の情報(偶発的情報)と固く結ばれたままで人が死ねば、悪霊になる(「神学の河口」№16参照)。そこで悪霊もまたイエスをよく知っているのである(マルコ1,34、ルカ4,41参照)。
一方王は、右側の人たちに、「さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい」(マタイ25,34)と命じている。王のこの言葉に、「主よ、いつ私たちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、喉が渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。いつ、見知らぬ方であられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか」(マタイ25,37~39)と問うた彼らの言葉から、彼らが王であるイエスを知らなかったことがわかる。福音書は、ここでこの右側の人たちを「正しい人たち」と呼んでいる(マタイ25,37参照)。王は、この正しい人たちに言う。「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」(マタイ25,40)。王のこの言葉は、同じマタイ福音書で、イエスが十二人の使徒を派遣するにあたり、いろいろと指図を与えた場面で最後に言われた次の言葉から、その意味を理解することができる。
「あなたがたを受け入れる者は、私を受け入れ、私を受け入れる者は、私をお遣わしになった方を受け入れるのである。預言者を預言者だということで受け入れる人は、預言者と同じ報いを受け、正しい者を正しい者だということで受け入れる人は、正しい者と同じ報いを受ける。よく言っておく。私の弟子だということで、この小さな者の一人に、冷たい水を一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける」(マタイ10,40~42)。
イエスの霊が協働に招くのはキリスト者だけではない。全地に遣わされているイエスの霊は、すべての人を協働に招く。その多くは、イエスを知らない人々である。彼らは、それと知らずに、あるいはほとんど反射的に、イエスの霊の招きに応えて、神の目に正しいとされることを行う。そして、仮にその業が他の人々に知られて称賛を受けても、そのように振舞った原因をよく説明できないことが多い。しかし、たとえイエスを知らなくとも、預言者を預言者だということで受け入れる人、正しい者を正しい者だということで受け入れる人に、「私をお遣わしになった方」、すなわち御父は、預言者や正しい者と同じ報いをくださるのである。それでは、「私の弟子だということで、この小さな者の一人に、冷たい水を一杯でも飲ませてくれる人」は、どのような報いを受けるのであろうか。この人は、イエスから「この小さな者の一人」と言われているイエスの弟子を通して、父と子と聖霊の名によって洗礼を受け、もう一人のイエスの弟子となるために、イエスが準備したすべてを受け取るのである。
こうして、洗礼を受けた一人の人が、ヨハネの黙示の訓練によってイエスの世界観を持ち、聖霊の2つの霊性の養成とミサに与かり、自発的にイエスの霊とともに意思決定し活動することを望む一人のキリスト者となる。キリスト者が、イエスが準備したすべてを受け取り、これを十全に使ってイエスにつながっているということは、イエスの霊と具体的に協働する前提条件である。イエスの霊は、この前提条件のもとにいるキリスト者と協働することによって、一人のイエス・キリストをこの世に再び現すことができる。
イエスの霊と協働するキリスト者は、いつもイエスとつながり、イエスの言葉を自分の内にとどまらせ、イエスの望むものを何でも願い、それがかなえられ、豊かに実を結ぶのを見る一人のイエスの弟子となるのである。これによってイエスの次の言葉が実現する。
「あなたがたが私につながっており、私の言葉があなたがたの内にとどまっているならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。あなたがたが豊かに実を結び、私の弟子となるなら、それによって、私の父は栄光をお受けになる」(ヨハネ15,7~8)。
つづく
2021年4月 広島にて
Maria K.
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